俯いた拍子にレゼ・トールの…この世界の地面が目に入る。そして思いがけず気が付いた。地面がどこか赤みを帯びている事と、それが右腕の鈍い痛みにあわせて脈打つような波を持っていることに。まさか…クリフォスの力がこの世界全体に浸透してしまったのか?さっき一瞬にして膨張していた力が軽くなった…もしやあれがそうだったのか?!
カイがそう考えている間にも、世界に溶け込んだクリフォスの力は確実に侵蝕を進めていった。傍らの人が消えるのを見て慌てて逃げ出す人も、相手の消え行く体にすがり付いて消えぬように懇願する人も、無差別にどんどんと塵になって消えていく。建物の中に逃げ込んだ人は、建物と諸共に消えていった。
カイの元を離れたクリフォスの力は、もはやカイのものではなくなっていた。止めようがない…止める術を知らない。カイはただ消え行く世界と人々の姿を、嫌というほど見聞きする以外になかった。
やめろ…
カイは唇を噛みしめ、押し殺すように呟いて自分の右腕に左手で触れた。
やめろ…やめろ…やめてくれ!!
消えろ…消えろ…!消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!!!!!!!!
カイは自らの右腕に爪を立て、クリフォスの痣を掻き消すように何度も掻き毟った。血が滲んできてドロドロと腕を伝っても、それでも止めなかった。痣を消せれば力も消える…そんな見込みが欠片だってあったわけではないけれど、今はただ世界を消滅に追い込んでいる力が自分の右腕に宿っている事が嫌だった。
…その右腕は闇の象徴…
違う…!!私は…私は闇などでは…!!けれど完全に否定することが出来ない。全てを知ればこの世界の住人は皆、私がそうだというに違いない。私が望んだ事でないにしても…!
カイの耳に大量の砂が崩れていくような音が響き渡る。それはクリフォスの力が遂に世界自体にも伝わった瞬間だった。地面がカイの周り半径1メートルほどだけを残すように、その先から闇へと飲み込まれて行くのが目に入る。クリフォスの力はドーナツ状に世界を砂へと変えていく。闇の堀の向こうには、まだ慌てふためく人たちの姿さえある。
第4炭鉱のクーデターはなお闇の堀の向こうにいる…しかし正体不明の混乱に均衡が崩れ、次から次へと逃げ惑い消えていった。その様子がカイの黒い瞳に余すところなく映る。もはや痛みに呻く事も、絶望を拒絶する事も彼には出来なかった。ただ短く呼吸を繰り返す。今更どうにもできない…どうにも…!!!
不意にその瞳にこちらを見ている人物が飛び込んできた。悲しみと憎しみと絶望が入り混じって歪んだ顔…その体は既にクリフォスの赤い力の手にかかってきている。
…なんでだよ…。
「オックス…!!!」
カイはとっさに名を口にしたが、同時にオックスは赤い光の中に消え、彼のいた場所も闇へと崩れていった。何もかもが消えていく…分かり合えなかったものも、心から信頼しあえたものも。クリフォスの光が鉱山さえも消していく様子がカイの目には届いていた。さすがにその場所の人々の光景までは見えない。けれど…ウィゴ、カロン、そして…エディ。全てが無へと帰していく…存在までも抹消していく。
最期の瞬間に何を思った…?何を感じた…?ウィゴ、君ならきっと分かっただろう…この赤くおぞましい光の根源が。ただ人が死ぬのとは違うのだ…こうして世界ごと消えていく事は。人が死んでも尚報われるのは、その人物を覚えている者がいるからだ。だけど互いの世界を知らない中で、誰がこの世界があったことを覚えているというのだ?!私しかいない…私しか…。この世界を消している張本人しか知りえないんだ…!!加害者に追悼して欲しいと望む被害者がどこにいる?!この世界の人々の人生を消し去って踏みにじっているのは紛れもなく私なのに…!!
「あぁ…う…っ」
カイは急に重くなった体に耐え切れず、その場に屈みこんだ。誰もいなくなった世界で、カイの震えるような呼吸だけが残った生命の証として響く。カイの目の前には無限の闇が広がっていた。上も下も分からなくなるほどに濃く、恐怖すら感じるほどに深い。カイにはその闇に覚えがあった。いつも世界を渡る時に感じていた闇の空間…それが今まさに目の前に現れたのだ、自分が世界を消してしまった事によって。
今更また別の世界に行けというのか…?それとももう何もかも終わりなのか…?
それならいっそ私も闇に溶けて無くなってしまいたい…無くなって…
カイの意識はそれっきりどんどんと薄れていった。いつもの世界を渡る直前のようなひどい倦怠感が体を支配していく。カイの足元に辛うじて残っていた世界の切れ端もとうとうクリフォスの力に侵蝕され始め、ボロボロと崩れ去っていった。
カイの体がぐらつく…漆黒の闇へと堕ちていく。そこは何も感じない無の空間、無にしてしまったのは私。カイはうっすらと瞳を開けた。けれど目を開けているのか閉じているのかも分からなくなる真っ暗闇だけが見える。
世界が一つ消えたんだ…
何故か他人事のようにその言葉が心に響く。それが救いなのか過ちなのかは分からない。ただ今は堕ちていく、堕ちていく…深い闇へと。しかしいつしかそれすらも感じなくなり、“このままどこにも着かなければいいのに”と叶わぬ願いだけが心に余韻を残していた。