「…お前はいいよな。」
オックスが小さく呟く。
「…何がだ?」
「お前はここが嫌になったらいくらでも別のところにいけるんだ!今回だってそうするんだろ?!そんなお前に何が分かる?!」
「待て…オックス、何故その事を知っている?!」
「…聞いたんだ…いつだったかの夜にあのチビに話していたのを。…いつもそうやって逃げてきたんだろ?!俺たちを止めようと思うぐらいなら別のところに行っちまえよ!!俺たちがどれだけ苦しんできたかも知らねぇで勝手な事言うな!!!」
「オックス!!」
オックスはそれだけ言うと前方にやや離れ始めたクーデターの集団に走っていった。
カイはその場から動かなかった…動けなかった。今まで感じたことのない何か激しい感情が、心の底からこみ上げてくるのが分かる。
…私が逃げていただと…私がお前らの苦しみを知らないだと…?!ふざけるな!お前らが私の苦しみの何を知る?!望まぬ戦争に身を投じて、分かり合えた人とも今生の別れを繰り返してきた。そんな苦しみを欠片でもお前らに分かるものか!!
この右腕の痣にどれだけ心を潰されそうになってきたかも分からない…これからどれだけこの痛みに耐えればいいのかも分からない…!!クリフォスの力を掻き消して、人生をやり直したいと思わなかったことはない!!それでも…ただ世界を平和にしたいとここまで来たのに…その私が逃げているだと…!
何も…何も知らないくせに…勝手な口を利くな!!!
ふとカイの目の前を赤い光がよぎる。カイは突然に意識を現実に呼び戻された。そしてやっと気が付いた、右腕の酷い痛みに。
「う…くっ…」
カイはあまりの痛みに右腕を抑えて跪いた。右腕が内部から焼かれているような耐え難い痛みが襲ってくる。脈打つような震動…激しい怒りや憎しみに燃えるような攻撃的な赤い光。さっき炭鉱の中で灯っていたものとはまるで違う。しかもそれが…抑えられない…!!
「…や、やめ…ろ…!」
カイは自らの右腕に懇願した。クリフォスの光はカイとはまったく別の人格を持ってしまったかのように荒ぶり、鎮まる事を知らない。今までこんな事はなかった…今まで感情が力を左右する事はなかった…けれど!!オックスの言葉に逆上し、我を忘れてしまった。分かり合えないことを、悲しむよりも憎んでしまった…何もかも無駄なら消えてしまえとさえ。
「あぁ…!!ぐ…」
カイは痛みに耐えかねて呻き、固く瞳を閉じた。こんな痛みを伴うくらいならいっそ切り落としてしまいたい…それくらいに右腕の痛みがカイに重くのしかかる。それでもカイは何とか瞳をこじ開けて自らの右腕を見遣った。クリフォスの赤い光は依然眩しいくらいの攻撃色を放っている。収まらない…抑えられない。徐々に右腕を上げられなくなっていく。光はいまや、はちきれんばかりに膨張しカイの右腕に纏わり付いていた。もう駄目だ…カイはそう思った。
しかし不意にその右腕が軽くなる。濃く眩しく凝縮されていた右腕の光が、一瞬にして空気中に拡散したかのように薄くなった。激しい痛みも影を潜めて、断続的なズキズキとした鈍い痛みだけが残っている。
何が…起きたんだ?
カイは肩で息をしながら、そっと右腕に触れた。右腕の痣はしっかりと浮かび上がっていて、未だ予断の許さない状況である事は分かる。けれどこれで力の暴走が収まったとはどうしても思えない。体がざわめく…手足が痺れるような嫌な予感がすぐ側にある。心臓が冷たく感じられるほどに激しく脈打っている。
嫌だ…何も知りたくない、見たくない…!何を拒絶しているのかも分からないのに、体が自然と拒否している…これから起きる非常に近い未来に対して。
「うああああぁ…!!」
カイのすぐ近くで断末魔の悲鳴が上がった。それも一つや二つではない。連鎖的に次々とあちらこちらから聞こえてくる。カイは痛みで汗の伝う顔を上げた。
「…っ!!?」
その瞬間カイは息を呑んだ。カイの目の前で人が一人、塵になって消えた。思わずクリフォスの右腕で触れてしまい、消えていったあの総督のように。カイは我が目を疑ったが、同じ事がレゼ・トールの至るところで同時に起こっていた。もう何人がそうなったかも分からない。
「ぐ…!」
あまりの光景に酷い吐き気がする。カイは思わず口元を抑えた。何故…私は誰にもこの右腕で触れてなどいないのに…?!