もしも全ての世界が平和になったら…
闇の中ではいつも同じ言葉が聞こえていた。カイが忘れないように、カイを次の世界に導くように、ずっと聞こえているのに最後を思い出すことは出来なかった。闇を貫く光の声か、闇に響く漆黒の声か、せめてそれだけでも知りたかったのに…。
カイはふと目を開けた。横向きに倒れていたため、黒髪が目の前にかかっているのが見える。ゆっくりと瞬きを数回するとおもむろに起き上がった。頭痛がする。だがさほど辛くはない。アィアツブスの世界で破壊の力を使わなかったことが、ダルの言った言葉が、それだけでなく今まで自分を好いてくれた人達の存在が、自分を支えているのが分かる。カイは優しくほほ笑んだ。
それにしても自分は今どこにいるのだろう。どこかの町の入口のようだ。カイはとある町の寸前にいて、道路脇の窪地にいるらしい。窪地から上がって見た町に至る道には簡易的な門があり、何か文字が書いてある。
「レゼ・トール…」
門に軽く触れるようにして呟いた。町の名前か。遠く町を抱くように大きな山々が連なっている。山のあちこちには煙突が何本か立っており、そこから黒々とした気体が絶えず立ち昇っている。何かの工場か、それとも鉱山なのだろうか。いずれにしても今いる場所からはよく見えない。カイは門から町へ向かった。門の周辺は何もない平地だが、数百メートル先には町がある。どこなくモノクロのイメージのする町だとカイは思った。
町の中心部に入ると、人々の生活がよく見えてきた。皆日常的な一日を日常的な幸せの中で過ごしているようだ。町の建造物には必ず煙突があり、今時分はどの煙突からも黒い煙がモクモクと出ている。何度か人々がバケツの中に黒い固形物を入れて運んでいるのに気付き、カイはレゼ・トールの町の主要なエネルギーが石炭であると見抜いた。家の中で使われているのが見えたし、先ほどから蒸気機関の路面鉄道や自動車とすれ違っている事からも間違いなさそうだ。
別段変わった事があるわけではない。だが何故か人々が自分を見ているような気がする。黒髪が珍しいという感じはない。この町の人は焦げ茶の髪に同じ焦げ茶の目をした人が多い。男性がやや少ないようにも思えるが、戦争が起こっているような雰囲気もない。あの声の主は「全ての世界で争いが起きている」と言っていたが、この世界は違うのか?
不意に背後から蒸気自動車が猛スピードで近付いて来た。カイの真横で急ブレーキをかけたが、制動距離に10メートル近く要していた。完全に停車して蒸気を目の前が霞むほど放出すると、中から厳格そうな男が出てきた。車から降りる時に躓いてよろけながらも体勢を立て直して、カイに意気揚々と近付いてくる。
「貴様なぜラー鉱山の動員に応じていない?」
男はふん反りがえり気味にカイに尋ねた。威圧的にというよりは見下したような言い方だ。
「動員?」
「そうだ。通知が送られているはずだが?」
「いや、もらっていない。私はさっきここに…」
「なに?送られていない?手配ミスか?」
男はカイの話を勝手に切り上げ、結論付けた。
「いずれにしろ、お前くらいの20代の男は皆動員するよう命じている。お前…おい、封筒をとってくれ!」
車の中の同乗者が男に一通の封筒をサッと差し出した。
「お前もこれを持ってラーへ行くんだ。詳しくは向こうで聞け。」
「ラーはどこに?」
「レゼを北に抜けた所だ。一番高い煙突が見えるだろう?あの下で動員手続きをしている。」
「…分かった。」
カイはあえて従った。ラー鉱山地区にこの世界の姿があるのかもしれない。カイに封筒を渡した男は車に戻ると、また猛スピードで町の奥にある一際大きな建物へと走りさって行った。
なるほど、レゼ・トールの人々がカイのことを見ていたわけだ。「何故鉱山へ行かないのか」、確かにそんな目だった。