ソロラスから来た二人の男はリシャオースを後にして帰路の途中にあった。今は一刻も早くツァラトラの拠点に戻り、真実と恒久停戦を伝えるためだ。来たときと同じようにカイが前を歩き、ダルが後ろを歩いていた。
カイはどこか晴れ晴れとしていた。思えばクリフォスの力で何かを消してしまうということがなかった。こんな風にしていけば、クリフォスの右腕が闇の象徴でなくなる日がくるかもしれない。カイは何かを掴んだように思っていた。一方ダルは何故か浮かばない表情をしている。時々うつむいた顔を上げてカイに何か言おうとするのをためらうことを数回繰り返した。そしてその何回目かにやっとカイに話しかけた。
「…あの、カイ殿。申し訳ありませんでした。何を聞いても落ち着いているようお約束しましたのに。」
カイは立ち止まってダルの方を向いた。
「いや、私も無理を言った。あの状況で冷静でいられるはずがないのに…君はよくやったよ。」
カイの言葉にダルは弱々しくほほ笑んだ。しかしそれもすぐに消えてしまうと、声を落として更に言葉を続けた。
「俺は…俺はもう分からなくなってきました。何が正しいのか。オルタスも国際政府も戦時下で苦しんでいたのに、我々ツァラトラはソロラスに籠り永く平和でした。やはり…やはり我々はソロラスを手放さなければならないのでしょうか?」
「それは違うよ。ソロラスのことで間違っていたのはやはり国際政府だ。平和でいたからといって聖地を取り上げられるなんて理不尽だ、君が言ったようにね。ただ宗教も一つ大きな過ちを犯してる。」
「過ち…ですか?」
「そう。それは教典の中に非戦の記述を残さなかったことだ。もし少しでも書かれていたら信じるもののための戦争など起こらなかっただろうに。宗教の肯定する戦争。私たちはそれをどう受け止めればいいんだろうね。」
カイは遠く空を見上げるように最後の言葉を呟いた。まるで自分自身に問い掛けているかのように。
「あの…もう一つ伺いたいことがあるのですが。」
ダルは少し間をあけてカイに切り出した。カイは目線を空からダルへと下げた。
「貴方は一体どこからお出でになったのですか?貴方はご自分を神ではないとおっしゃいますが、あれは…あの赤い光は何なのでしょう?」
「あれは…私の宿命だよ。」
カイは右腕をあらわにした。右腕からは光も痛みもすっかり消え去っていた。
「私は別の世界から来た。」
「セカイ…ですか?」
やはりここでも世界の概念はないようだ。
「そう。ソロラスやコルーク、ロウエン、それ以外の君が見ることのできる全てを含めて世界というんだ。そしてここ以外にも別の世界がいくつもある。物質主義のキムラヌート、拒絶のシェリダー、ここは私にとって3つ目の世界アィアツブス、意味は不安定だ。」
カイは右腕の9番目のクリファを指した。
「それぞれの世界には争いがあって、その姿を見極めるよう言われた。誰にだかは分からないけど…でもこうして世界の姿を見つけて争いを終結させていくたびに、右腕のクリファが埋まっていっていつか全て埋まる。」
「そしたらどうなるのですか?」
「分からない…。覚えていないんだ。でも私に示された道はそれしかない。争いを止めるといっても、結局は自分のためだ。自分の記憶を取り戻すために戦渦に飛び込まなければならないなら、私は何も厭わない。」
カイは強く前を見据えた。クリフォスの右腕はそんなカイの心に応えるように淡く光り出した。
「こ、これは?」
ダルの目は何か神々しいものを見るようだった。
「もう次の世界に行かなくては…。これはその合図だ。ツァラトラの村まで一緒に帰りたかったけど、時間がないみたいだ。」
カイは少しとろんとまどろむような目になった。いつものように強烈な眠気が襲ってきたことと、世話になった場所へ帰り着けない無念さがあったからだ。
「ダル…後を頼むよ。オルタスにも私を知る人がいる。テテという名の老人だ。その人とジークと、それから君達とで…頼んだよ…」
カイは最後の言葉を囁くように言った。本当はもっと他に言葉があったのだけど、もう思考が追いつかなかった。ふらついたカイをダルは慌てて支えた。片手ではうまく支えられなかったが、すぐにそんな事は関係なくなった。カイの存在がどんどん薄れていったからだ。
「カイ…カイ殿!」
ダルは何とか呼び覚まそうとした。覚醒すれば消えることはないのではないかと考えていた。だが…
「カイ殿、貴方が神ではないとおっしゃっても、俺たちにとってはやはり神です!貴方のおかげです、なにもかも。」
目をつぶったままカイはほほ笑んだ。クリフォスの光でカイの姿が段々と見えなくなってきている。ダルはもう二度とカイに会えない予感がしていた。しかしその予感にあえて反して言葉を続けた。
「でももし…もし次に会うことがあるなら、その時は神ではなく友人としてお目にかかりましょう!俺にとって貴方は…」
貴方は友人のようなものでした、心のどこかで既に。
しかし最後の言葉を言えなかった。どうしても言いたかった最後の言葉は、涙を堪えるのに伴って喉の奥に飲み込んでしまった。カイが再び目を開けた。少し虚ろな、しかし柔和な目で呟いた。
(分かってるよ。)
声なき言葉を残してカイは消えた。クリフォスの赤い余韻がまだダルの回りを漂っていた。しかしその光も砂漠の強い風に飛ばされるように拡散し、やがて炎が消えるように見えなくなった。