清十郎は向かってくる鬼から一歩も引かず、機を計るように身構えていた。鬼は溶け出した体を引きずりながらも、人外な速さで二人に向かってくる。数刻前までは安らぎさえも見ていた黒き鬼の面は、真の闇に染まったか、木製の面の角や牙はまるで刃物のように璃子の目に映る。璃子はその文字通りの鬼気迫る状況に震え、今にも腰が抜けんばかりであった。
「鬼め…かくも救いがたいものよ…!」
清十郎は互いに避け切れない位置まで鬼を誘い込むと、携えていた茅の輪を紙一重で鬼の首へとかけた。そして鬼の爪を避けるように、跳ぶが如く後ろへ退く。不意に茅の輪をかけられて、鬼は一瞬戸惑いに足を止める。よもや茅の輪に効果はなかったのでは…しかし璃子がそう思ったと同時に、茅の輪の短冊状の布が一斉にざわめき立った。
「ぐおおぉぉあぁぁ…!!!!!」
茅の輪は日輪を示す…その神楽での意味合いを裏付けるように、茅の輪は鬼の首で淡く光りだした。それが鬼にとっては灼熱にも感じるか、鬼の体は叫びとともに更に不定形な姿へと変わっていき、遂にはその場から動けなくなった。下半身は既に溶け込むようになくなり、上半身だけでもがいていた。茅の輪の元々持つ力に蘇った山神の力が加わったのだろう、鬼は見る間に小さくなっていく。
「おのれぇ…!」
それでも鬼は最期の力を振り絞り、残った鋭い爪を清十郎に向けて振り上げた。邪気によって構成されていた腕は如何様にも伸び縮み、正確な間合いを容易に計らせようとはしない。それがために鬼を完全に封じようとしていた清十郎の腹を掠め、鮮血が飜んだ。
「くっ…!」
「清十郎様!!」
「構わずそこにいなさい!」
思わず駆け寄ろうとした璃子を、清十郎は一喝して拒んだ。やはり油断ならない…この原型留めぬ状況に於いても尚牙を剥く。清十郎は、思いの外深く傷つけられた脇腹を押さえて僅かによろめいたが、ぐっと足に力を込めて留まると一旦退いた足を再度大きく踏み出した。
「この村が字(あざな)で呼ばれるのもこれが最後だ!」
清十郎はそう奮い立って装飾刀を逆手に持った。血の赤い線が引かれた刃が、山の際から漏れた夕日に煌めく。
「息災退散…!!」
その言葉と共に、今だ汚らわしい叫びを絶やさない鬼の面に装飾刀を突き立てた。それは鬼を葬ると同時に、長らく鬼として過ごしてきた自分との決別でもあった。清十郎はその瞬間に何を思っただろうか、表情を少しも揺るがせることなく、柄を握り締めた手に力を込める。刀は面の中心を貫き、そのまま地面へ深く突き刺さる。
「ぐぎゃあああぁぁぁぁ…!!」
装飾刀に貫かれ、鬼はぞっとするような断末魔の悲鳴をあげた。刀はその刃の半分以上を地に埋め込むように刺さり、鬼は急激にその姿を小さくしていく。邪気の中心はまるで地面に吸い込まれるように、纏った邪気はまるで蒸発していくように、見る間に浄化されていった。それに伴って周りの重苦しかった空気が一掃されていく。山々は邪なる抑圧から解かれ、歓喜のざわめきをより力強く奏でている。清十郎はそれを耳にしていながら、尚も鋭く邪気を見つめていた。その胸中には、いかなる思いが駆け巡っているのか。鬼の叫びは段々とくぐもっていき、最後には声ともつかない音へと変化していった。黒い邪気もどんどんと薄まり遂には消え、ただ茅の輪の中心に装飾刀が鬼の面を貫いて残っていた。
「お…鬼は…?」
璃子は鬼の断末魔に震えながら僅かに一歩踏み出した。
「…死んだ。尤も元から生けるものではなかったが。」
清十郎はそういうと屈むようにしていた体勢からややよろめくように立ち上がり、脇腹から流れ出ている血を手にとって、いくらか鬼の面へと垂らした。するとその血の地面に触れた部分から一斉に木の芽が芽吹いて、どんどんと成長していくと、茅の輪を幹に巻くような大木が目の前に現れた。その幹の内部に鬼の面と装飾刀を隠すように。
「これは…」
璃子は感嘆の声を呟き大木を見上げた。その木はまるでしめ繩を巻いたご神木のように神々しく、三方の山々のいずれの木よりも雄々しかった。秋というのに、その木の枝には緑の葉が揺れる。璃子は足元に落ちて来た青葉を拾い上げて胸に抱いた。
「清十郎様、これは一体…」
「十中八九、山神の力だろう。誰も封印の装飾刀を抜けぬようにと…。」
清十郎が穏やかに木を見つめ返す。浄化の力を高めようと垂らした自らの血…よもやこのような立派な木へと変貌するとは。山で生きながらえたこの数十年、何も無駄な事ではなかったか。鬼と称されたその間も、常に山神らと共にあったのだ。大木は、そんな清十郎の気持ちに応えるように枝を揺らす。二人は微笑むように木を見上げていた。
「…さぁ、参ろう。」
「?!…清十郎様…瞳が…」
ややあって振り返った清十郎の瞳を見て、璃子は驚いた。相変わらずその瞳は緑色を帯びているけれど、あの鋭く光る黄色い三日月が消えていた。
「瞳から三日月が消えてございます!」
「…三日月が?」
清十郎は目元に手を添える。鏡なくして自らの瞳を見ることはできないが、それでも細い糸を手繰るように感じることはできる。自らの体のうちに残留していた鬼の邪気。完全になくなったとはいえないまでも、確かに弱まっているのを感じる。
「なるほど…鬼が死んで私の中の邪気が僅かに祓われたのだろう。しかしこの白髪と緑の瞳までは戻るまい。」
これは三神村に鬼のいた証。決して忘れえぬ強い戒め。
「そんな…」
「良いのだよ、璃子。今更姿が戻ろうと現実は変わらぬ。…それより参るぞ。」
「いずこへでございますか?」
璃子は早くも歩き出した清十郎の後を小走りでつけながら尋ねた。
「伊國家だ。父…いや、大旦那から邪気を祓わねばならぬ。」
清十郎は伊國家へ向かう足を“清十郎” から“セイ”へと変え、璃子を従えながら山を下りていった。璃子はそんな清十郎の後を追いながら、もう一枚山神の木の葉を拾うと、それを清十郎の手の中へと入れた。清十郎がそれに気が付き振り向く。璃子は鬼が消えたこととは裏腹に、今にも泣きそうな面持ちであった。お伽話ならば宝の一つも手にできようが、現実は鬼を退治したとて、鬼から返るものは何一つないのだと痛感していた。
「…何て顔をしている、璃子。ご覧なさい。」
清十郎は、今は背後に遠ざかり始めた山神の木を指した。
「山神は帰ってきた。」
その言葉に、まるで大木には三方の山神が控えているように見えた。