「…?!」
清十郎は茅の輪を手にしたと同時に何かに鋭く気が付き、木の影の向こうに注力した。その理由は璃子にもよく分かっている。山のそう遠くない位置、あのべっとりとした鬼の邪気が確かに近づいてきているのだ。
「来たな…」
清十郎はそう呟くと腰元の装飾刀を抜き、その切っ先で再び自らの手を切った。そして同じように刀の腹に赤い血の線を引く。以前子の祠への奉納金に記されていた呪歌を祓った清十郎の血。そしてそれと同じものが璃子にも半分流れていると、そう口にしたのも清十郎。璃子はその鮮血を見つめ、それから自らの両手を見た。
「清十郎様、私の血も使えませんでしょうか?」
同じ瑠璃姫の血が僅かでも流れているのなら、鬼を倒す助力になるかもしれない。
「いや…そなたの血は母上に似て秘めた力が非常に微弱のようだ。ここは私に任せなさい。」
清十郎は璃子の震える手から何を感じ取ったのか、静かに否定した。
「…そんな…」
璃子は泣き出しそうな表情で自らの両手を見つめ返す。一つでも多く、清十郎の役に立てる事があれば良かったのに…。
「そう気落ちいたすな。そなたにはまだやるべきことがある。あの…」
「見ぃつけた…」
「…ひっ…」
璃子は一瞬にして青ざめ息を呑んだ。今は真の悪鬼のものとなった黒い鬼の面が、木の影からゆっくりと姿を現したのだ。面の裏の血文字でその邪気を押さえ込まれているとはいえ、その禍々しさはおよそこの世のものとは思えないもの。警戒していたはずの清十郎でさえ、一瞬その動きを止められてしまった。
「二人まとめて死ぬがいい!!」
鬼はその刹那を見逃さず、実体化し鋭く光る爪を立てて、その筋骨隆々の異様に長い腕をしならせながら二人に斬りかかった。
「あぁ…!」
「くっ…」
清十郎は咄嗟に茅の輪と璃子を両手に抱え、その場に瞬時に跳ね上がると、そのまま巨木を貫いた鬼の腕から一足飛びに距離をとった。ザザザ…と半ば倒れこむように二人は着地し、清十郎は素早く体勢を整える。清十郎とは異なり思い切り倒れこんだ璃子は、それでもすぐに顔を上げて恐怖の根源を見遣った。ボコボコと不快な音を立てながら、鬼の体が内部で流動しているのが分かる。清十郎に封じの面を付けられて、邪気は人の形に凝縮されたか。鬼の体の流動性には、押さえ込もうとする清浄の力と外に出ようとする邪気とのせめぎあいのようにも見える。あまりの勢いに肘まで幹に食い込んだ鬼の腕。鬼が荒々しく腕を引き抜いた後には、巨木に大きな穴が開いていた。
「おのれ…清十郎…。忌ま忌ましい面をつけおって…!その身ズダズダに引き裂いてくれるぞ…清十郎!!!」
璃子の背丈の二倍にもなる鬼は、前屈みの体勢をとりながら呪いの言葉を吐きかけた。その声は低く、ガラガラとしわがれた音を伴っている。
「自らで封じておきながら私の名を連呼するな、鬼よ。何度お前が口にしようと私には通用しない。」
清十郎はぴしゃりと厳しく言い放った。その言葉に僅かに歯ぎしりのような音が響く。
「クク…ならばお前はどうだ?瑠璃子。」
鬼に再び名を呼ばれ、自然と璃子の体がびくつく。その一言だけで邪気に囲われているような悪寒、首を締められているような苦しさに見舞われる。名の持つ力のかくも強いこと…それ故に躍起になって鬼が隠したのだ。
「璃子には通用すると狙いを変えたか、浅はかな。確かに璃子はお前が口にする名の言魂に対処できぬが、お前が最も嫌がるものを持っているのだぞ。」
「なに?」
清十郎は尚も膝をついたままの璃子の前に立ち、強気な笑みを鬼へと向けた。それを受けて、逆に面の下で明らかに浮かべていた鬼のいやらしい笑みが一瞬曇る。
「笑止。今更何をもってしても無駄だ…!」
鬼は大きな足音を立てて一歩踏み出した。気がつけば今までそよいでいたはずの風も、それに舞う落ち葉もなりを潜めていた。真の姿の鬼によって、まず初めに殺されたのは山そのものだったように思えた。
「虚慢もそこまでだ!!」
再び鬼が吠える。その声に震えた空気が、衝撃波のように辺りを貫く。しかしそれでも清十郎は動揺の色を見せない。
「いや、遂に潰えるのはお前の方だ。璃子…」
清十郎は僅かに振り向き、その静かな目線を璃子に注いだ。その目が“あの和歌を…”と言葉なしに促す。
「名…名にし負わば…」
震える声でほつりと呟いた。更に一歩踏み出そうとしていた鬼の足が止まる。
「名にし負わば
礎築かん
神社(かみやしろ)
宿りて守りの
みかみの山神…
…そう…この村の名は…」
和歌に導かれるように璃子の言葉は続く。まるでそこら中から、聞き取れないほど小さな声が囁きかけているかのようだった。
「止せ…」
鬼は押し殺した声で呟いた。今まで璃子を下等と見なしていた高慢な態度が、一瞬にして怯えや憎しみとも取れるものへと変わる。その発するひどい憎しみの感情に清十郎は身構えた。璃子も普通であったらこの鬼の邪気を察して、身の危険に無意識に口をつぐんでいたかもしれない。しかしそれをも上回る力が今の璃子には働いていた。その力が言葉を切らしてはならぬと促し続ける。そして璃子は、とうとうその名を呟いた。
「村の本当の名は…三神村。」
璃子がそう口にした途端に、村全体を駆け抜けるような風が一陣吹いた。鬼の邪気に静まり返っていた山々は、その風を受けて生き返ったように木々を一斉に揺らす。その音はまさに命の息吹。大きくざわめき立つ音が歓喜の声のように聞こえてくる。地に張り付くように微動だにしなかった落ち葉が、今は舞い踊るように辺りを飛び交う。秋の風だというのに、どこか暖かさすら感じられる…山々は今まさに璃子が口にした真の村の名をもって蘇ったのであった。
「なんと…」
璃子は木々を見上げて呟いた。山神の存在を確かに感じていた。酉の山神のみならず、子の山神、卯の山神ともにあるようであった。鬼が名を封じていた時はかくも恐ろしいと感じていた名の言魂を、今は素晴らしいものとして受け取っていた。三神村…その名一つでこれほどに蘇るとは…。山神らよ、さぞ待ち望んだことだろう。
「うぅ…ぐ…あぁぁぁぁ…!!」
そんな歓喜のざわめきを破って鬼の叫び声が響く。あれほどどす黒く筋骨隆々の肉体を誇っていた鬼の体は、見る間にどんどんと薄れていき、纏っていた邪気のようにどろどろと溶け出した。
「おのれぇ…っ…忌ま忌ましい…小娘がぁっ…!!!」
息も絶え絶えに鬼が璃子を睨む。あの醜く高飛車に歪んだ笑みは見る影もない。鬼は重い足取りでドスッドスッ…と数歩進んだが、三方の山神に押さえ込まれてか、崩れるようにその場に屈み込んだ。それでも清十郎は警戒を微塵も解かない。鬼の原動力は憎しみ、怨み。山神が復活したこの状況において、鬼のそれは増大しているのだ。
「うぐぅ…っ…死、死なぬ…死なぬぞ…!」
鬼は呻くように繰り返した。相変わらずガラガラという不快な音を伴った声。溶け出した体を地から引きずり出すようにうごめく。ボタボタと邪気の零れ落ちる音が不快に響く、それはまるで血反吐を吐く病魔の如く。しかしその鋭い眼光と恐ろしさは衰えない。二人を見据えた目が怪しく光り豪語する。
「ただでは死なぬ!!」
山神の抑圧を振り切って、鬼は遮二無二走り出した。牙を剥き、辛うじて鋭い爪を立てて二人に襲い掛かってきた。最期と知ってこれ以上ないほどの憎しみを溜めこんだ鬼の素早さは、璃子に声を上げさせることすらさせなかった。