「ここまで来れば一先ずは良かろう。」
清十郎はひどく息の上がっている璃子を伴って、巨木の影に身を潜めた。鬼からいくらか離れた場所でさえ、山々は落ち着かないようにざわざわと音を立てていた。生き物はどこへ隠れたか、まるで気配が感じられない。恐ろしいくらいに無機質な音が、辺りを満たしていた。
「鬼は…もう…来ませぬか…?」
璃子はならべく大きな音を立てぬように、息を整えながら尋ねた。清十郎の投げつけた面にひどく苦しんだ鬼。あのまま消えてしまえと、心の奥深くで切に願う。
「いや…あの面だけでは完全な足止めにならぬ。それにこの機に倒してしまわねば。」
清十郎はそう言って小さく溜め息をついた。緑の目が少し伏目がちになり、それから鋭く木の影の向こう側へと向けた。鬼を警戒しながらも、その目には何か考えを宿していた。その思慮深さは昔と何ら変わらない。
「清十郎様…あの…」
璃子は息が整うのを待って切り出した。その声は僅かに震えている。目線は清十郎と地面の間を泳ぐように移動する。無理もない、俄かに信じられないことは山ほどある…鬼が公三郎に成りすましていたこと、あのような禍々しい邪気がこの世に存在すること…。この上なく悲しく、この上なく恐ろしい。しかし何よりも驚愕したのは…
「真なのでございましょうか?私が清十郎様の…」
「異父妹(いふまい)だといったことか?」
「はい。」
璃子は真っ直ぐに清十郎を見つめた。その様子に、木の影から鬼の気配を探るようにしていた清十郎も向き直る。
「間違いなく真のことだ。璃子、そなたは母上が里帰りなさった折に孕まされた子。可哀相だが、それ以上誰の子なのかは分からぬ。」
清十郎は伏目がちに小さく首を振る。
「父上の子ではない故に、伊國の娘としては認められなかったのだ。それで小間使いの元に引き取らせ、そのものと同じように扱った。尤も…それを承知していたために、父上のご寵愛が妾に向くことになったのだが…」
清十郎の言葉に、ふと鬼の言葉が頭をよぎる。妾が…公三郎の母が抱いていた私怨。“寵愛を受けながら我が子を跡継ぎに出来ない身分”…全ての発端となった負の思い。
「では…では私の存在が鬼を…?」
妾も寵愛さえ受けていなければ、その身分を相応のものとして鬼を引き込むことなかったのでは…。清十郎の人生を狂わせ、山神の力をも凌駕し、幾度も災いがもたらされた。そして何よりも公三郎…いつも側にいたようで、実際には子の山で果てていた哀しき方。負の思いの発端を辿るとそこにあるのは…
「璃子、その思いは鬼の助力となる。自分を卑下してはならないよ。」
清十郎は素早く璃子の思惟を汲み取り否定する。
「全ての根源は鬼だ。寵愛が移るのも、身分に不満を持つのも古来から繰り返されてきた人の性。そこにつけ込む鬼が悪なのだ。…いいね、そなたには母が付けた“瑠璃”の名がある。望まれて生まれなかったにしても、愛されて生まれたのは確かだ。母上は育ての母君と同じくらい璃子を愛していらした。それを忘れてはならないよ。」
清十郎は一つ一つの言葉を力強く璃子に言って聞かせた。そしてその言葉が終わってからも、璃子が頷くまで静かにじっとその顔を見つめていた。みるみるうちにその大きな瞳に涙が溜まっていく。一度として瑠璃姫を“母”と認識してこなかった璃子にとって、その清十郎の目線こそが全ての真実。幼い頃、ふと気が付くと誰かに見られているように感じた事が多々あった。ただの一度も生みの親だと名乗り出ることなく、遠くから静かに見守る真の母の姿がそこにあったのだ。瑠璃姫の心が痛いくらいに伝わってくる。
「…はい、清十郎様。」
璃子は涙ぐみながら強く頷いた。その涙をそっと拭いながら、口元には小さな微笑が見られた。なんと有難きことかな、二人の母の愛情を一身に受けていたのだ。それは鬼の邪気など到底敵わぬほど強い愛情。鬼に対する心の隙は、また一つ塞がれたのだ。
「さて…手立てを講じなければ…」
璃子が落ち着いた様子を見て、清十郎はおもむろに呟いた。いつも何事にも動じなかったその顔に、今は僅かに動揺の影が見られる。
「以前邪気にそうなさったように、刀を突き立てるのでは…?」
「私も結果的にはそうしたいのだが、この度はあの時のような邪気とは異なるのでな…。あの時程度であれば困難な事ではないが、鬼本体へとなってそれが敵うかどうか…。刀を突き立てたところで切っ先が折れるやもしれぬ。」
清十郎はそう言って装飾刀の柄に手を触れた。今まで幾度となく災いを斬り、祓ってきた神楽の刀。山に身を置いてより十数年、常に側にあり信頼してきた。しかし先の鬼の邪気はその思いすら覆させる。それほどまでに鬼本体の邪気は強固なのだ。万一にも刀が折れれば、さしもの清十郎も手出しが出来ない。互いに正体の知れた今、逃せば清十郎も璃子も以前のままにとはいかないだろう。
「清十郎様、これを…」
深刻な面持ちの清十郎を呼び止めて、璃子はずっと抱えてきた風呂敷包みを解いた。長年の埃によってくすんだ紅の風呂敷。その中からは、それこそ大きな桶のたがほどもある輪が出てきた。輪には白・藍・紅の短冊状の布が幾重にも結び付けられている。璃子はパサッと微かな音を立ててそれを顕わにすると、清十郎を真っ直ぐに見つめ差し出した。
「それは…茅(ち)の輪か。」
茅の輪とは、清十郎の持つ扇や装飾刀と同じ神楽の採物。演目中では日輪を示し、鬼の首にかければその力を弱めるという代物。あの日、倉の中で璃子が見つけたのはそれだった。茅の輪が本当に鬼に効くのかは定かではなかったが、つづらの中で見つけたとき、璃子はこれが大旦那・喜一郎の意思なのだと知った。さもあらば、あの恐ろしく映った喜一郎は真なる鬼だからなどではなく、鬼の邪気によって侵されているためだと容易に察しがついた。
「これをどこで?」
「伊國の倉の中からでございます。全ては大旦那様のご意思です。それを子の祠に奉納するようにと…」
喜一郎も鬼の邪気によって混濁とした意識の中で気が付いていたのだろう。子の祠へ奉納されていたおぞましいまやかしに。そしてそれを浄化すれば、いくばくか鬼の邪気が弱まるのだと踏んでいたに違いない。尤も子の祠はそれよりも少し前に、清十郎の手によってすっかり浄められてはいたのだが、茅の輪を取りに行かせたことが喜一郎への疑念を晴らすことになったのは言うまでもない。鬼の邪気によって薄らいだ生気の中でなお、喜一郎もまた村を案じていたのだった。
「父上…」
それを聞いて、清十郎も璃子と同じ思いを抱いた。何としても鬼を倒し、邪気から救って差し上げねば…。