「璃子。」
不意に鬼に名を呼ばれ、璃子は体をびくつかせた。名前には言霊が宿るのか、他のどの言葉よりも体に深く突き刺さる。璃子は唇を噛みしめて、胸元の風呂敷包みを強く抱きしめながら、体の震えを止めようと努めていた。清十郎はそんな璃子を完全に自分の背後に隠す。鬼はその二人の様子を嘲るように見据え、そして高揚するような口調で忌々しげに言葉を続けた。
「儂にはお前も邪魔だった。幼少の折には最後まで清十郎の名を忘れず、今になって尚思い出しおった…!幾度となく儂から遠ざけ呪い殺してくれたものを…しぶとく生きながらえるとは…!」
「…っ…そんな…」
璃子は鬼を見ないながらも、清十郎の背後で愕然としていた。度々使いを頼まれる事を一種の信頼だと思っていた…しかしそうではなかった。覆される思い…常に笑みを絶やさず穏やかに使いを申し付ける姿は虚像だったのだ。
「…お前に璃子を殺せなかったのも当然だ。」
清十郎の思いがけない言葉に、再び体の震えが止まる。
「なに?」
「璃子には私と同じ血が半分流れているのだから。」
「…え?」
「何だと!!?」
璃子も…そして鬼でさえ驚愕の声を上げた。璃子はずっと伏せていた顔を持ち上げ、清十郎の顔を斜め後方から見遣った。清十郎はこちらを見ない。しかし僅かに垣間見る彼の緑の瞳は、揺るぐことなく尚も鬼を見据えていた。
「…今なんと申した?」
「ならば敢えて繰り返そう。“璃子には私と同じ血が半分流れている”と言ったのだ。璃子は瑠璃姫の娘、私の父違いの妹だ。」
「わ…私が清十郎様の…?」
璃子はそのはっきりとした瞳を見開き、今一度清十郎を凝視した。確かに母に似ていないといわれ続けていた…瑠璃姫がその御名を小間使いの娘に与えるのも不可解な事だと思う節もあった。これほどまでに清十郎を愛しく思う心持ちも、懐かしい親しみも…二人の間に血縁があったればこそ。全ての辻褄が重なっていく。
「ク…ククク…」
そんな僅かな心の安らぎを断ち切って、鬼は再び不快に笑い始めた。
「なるほどな…道理で疎ましかったわけだ!さもあらばこの場で二人もろとも食い殺してくれる!!」
鬼が鋭くそう言い切った途端に、その体が内部からボコボコと歪に盛り上がり、急激に人の形を成さなくなっていった。そして遂には長く纏っていた公三郎の皮を醜く切り裂き、中からドロリとした大きな邪気の塊が姿を現した。以前璃子の後をつけていたあの邪気よりも数段に濃く不快で、その中心となる真っ黒な部分が周りに邪気の膜を纏っている。その核になる部分は僅かに四つん這いになっている人のようにも見えようか。しかしすぐにそれを確認できる間はなくなった。鬼の纏う膜が二人の辺りを一面に覆い、夕焼け迫る酉の山の一角をどす黒く染めていく。
「あ…あぁ…清十郎様…」
璃子はその漆黒に動揺して清十郎を呼んだが、彼は相変わらず静かに佇むだけであった。
「ふ…醜い姿を晒しおって…」
そうして持ち上げた面の裏には血文字がびっしりと書かれている。
「お前に似合いの面をくれてやる!」
清十郎はそう言って黒い鬼の面を邪気の核へと投げつけた。面は吸い付くようにぴたりと核の面前を覆う。
「ぐ…ぐああああぁぁぁ…おぉのれぇぇ…!!!」
途端に面から発した稲妻に鬼は苦しみ、この世のものとは思えない叫び声を上げた。周りを覆っていた邪気の膜も収束していき、核の部分が徐々に鮮明になっていく。それは人の形をしていても、やはり人とは到底思えぬ醜いもの。その姿も叫びにも、全身に鳥肌が立つ。
「璃子、一旦離れるぞ。」
「は…はい!」
清十郎に手を取られ、璃子は慌てて走り出した。木の間を縫うようにすり抜け、苦しむ鬼からどんどんと離れていく。璃子は眼前で揺れる白い短髪を見ていた。清十郎の口にした言葉が絶えることなく繰り返される。その思いが聾唖(ろうあ)にしたか、劈くような鬼の叫びも、山々の木のざわめきも、いつの間にか璃子に耳には届かなくなっていた。そして恐怖から離れていくごとに、様々な思いが胸中に交錯していったのである。