「クク…」
「何が可笑しい。」
「今更何をしても無駄な事…じき私の邪気に飲まれ死ぬ運命(さだめ)。あがく姿の滑稽なこと。」
公三郎は醜く顔を歪ませた。いつの間にかその瞳は緑色の染まり、清十郎とは異なる赤い三日月をその中に宿していた。
「だが最後に詰めを誤ったな。璃子が私の名を取り戻し、私の血に濡れた手ぬぐいを携えていたが故に、お前は正体を晒さざるを得なかった。臥せっていたのも、緑の目を隠しきれなかったのも、今こうして山に出向いた事でさえ、お前にとっては想定外だったことだろう。」
「ふ…あえて否定はすまい。だが、それが何だというのだ?貴様らを殺すには事足りる…貴様らを殺せば…我が邪気の脅かされることのなくなるというものだ。」
鬼の声は不気味に高揚し辺りに響く。璃子は清十郎の背後でその言葉を聞くまいと努めていたが、どうしても耳に入ってくる度に体をびくつかせていた。鬼の真に恐ろしきは、人の心理に入り込むこと。璃子は尚も手足の先を震わせながらも何とか耐えていた。鬼には隙を見せてはならない。
「この村もいよいよ我が手に落ちる時。次の新月には極上の災いを招いた晩餐になろう。これこそ十数年もの間、愚かしい人間に成りすましていた甲斐があったというもの。一人残らず食い殺してくれる。」
公三郎は天を仰ぎ悦に入った。その緑の目にも映ったか、夜空には日毎細くなりつつある半月が浮かぶ。
「十数年…やはり幼少の頃からか…」
清十郎の苦々しい言葉に、公三郎は今一度視線を下ろす。
「全ては公三郎の母親が引き起こしたこと。浅ましい妾…あの女はお前とその母親を憎んでいた。大旦那の寵愛を受けながら偏愛する我が子を跡継ぎに出来ない身の上を憎み、正妻の座を妬んだ末に成り代わってやろうと企んでいた。強固な三方の山神の守りに生まれた一転の穴…そこから儂が来てやったのだ。公三郎を子の山で食い殺し、その皮をかぶって成りすました…齢十にもならない子供を我が牙にかけることなど造作もない事。誰もすり替わった事に気づきはしなかった。」
そう話し続ける男の顔は、もはや公三郎とは言い難いものだった。その歪んだ顔つきはまさに鬼。清十郎を隔てていなければ、璃子などあっという間に邪気に飲まれているところである。
「…それから次々と手をかけていったということか。」
「ククク…子供の皮を被って道化のように振舞えば誰も疑いはすまい。人間の皮にわが身を定着させるには生き血が必要だったのだ。尤も我が邪気はあの女のおかげで潰える事はなかったがな。愚かな女よ…我が正体を知って発狂しおった。死して尚我が邪気の糧になるとは、まったくこの上なく利用価値のあるものよ。」
ニタァ…と浮かべた汚らわしい笑みには鋭い牙が伺える。伊國の墓の隅に据えられた、公三郎の母の墓標が頭をよぎる。先祖代々の墓に寵愛された妾の墓が作られたことを、喜一郎や息子・公三郎の優しさだと思っていた。しかし全ては死して尚、途切れることのない妾の恨みの思念を糧にするため。璃子は同時に、人づてに聞いた公三郎の母のことを思い起こしていた。「鬼が…我が子が…」と遺した最期の言葉、あれは我が子を案じるものではなかったのだ。
「…そして一番邪魔だったのはお前だ…清十郎。」
鬼の顔は更に醜く歪む。
「体を定着させた後、儂は一番の狙いであったお前と瑠璃姫にも手をかけた。それがあの女の望みであったし、何よりお前ら母子が疎ましかったのだ。事あるごとに儂の邪気を脅かし、取り祓おうとする山神にも似た力。すぐにでも消すべきであった。」
鬼の声は一段と低くなり、憎々しげな響きを含んでいた。鬼は常に強い邪気を発しているのか、璃子はまともに鬼を見ることが出来ず、清十郎の言い付け通りその背だけを見ていた。今鬼を一目直視しようものなら、完全に自我が崩壊するとさえ感じていた。
「…あの夜の事、お前も忘れはすまい、清十郎。」
歯軋りをするような音を立てて鬼は清十郎に問う。しかし清十郎はそれでも微動だにしなかった。鬼が激しく憎しみ、怒りを周囲に放出しているのとは対称的に、清十郎はその静かな怒りを自身の中にほとばしらせていた。
「あの夜のうちに母子共々一思いに殺してやろうとしたものを…瑠璃姫は儂の邪気にあてられて簡単に死んでいったが、子供のお前は生き残った…!あの時ほどお前が忌々しいと思ったことはない…!!」
「…私の母の血だ。」
清十郎は小さく呟く。
「我が血統は、さる高名な陰陽一族の分家。母や祖父にはその力がなかったが、お前に襲われた時に私に秘められていたそれが目覚めたのだろう。邪気を吸い込み浄化する力…お前に私を殺せなかったのも当たり前だ。」
「だがそれもまた不運。あの時素直に死んでいれば“可哀相な清十郎坊ちゃん”と墓穴の一つ、卒塔婆の一本でもこしらえてもらえたものを。儂の邪気を浄化しきれず姿が変わり、逆に諸悪の根源といわれ勘当までされて…愉快なまでに不幸な男よ。」
カカカ…と鬼は不快な笑い声を上げた。その狂気の表情はもはや人の姿をしてるのが不思議なほどであった。