璃子はこれほどまでに公三郎の存在を恐ろしいと感じた事は、今までに一度たりともなかった。いつも穏やかに笑みを絶やさず、何かと用事を申し付けてくれる若い世継ぎを心から信頼していた。しかし…今のこの状況はそれを根底から揺るがしている。あまりに不自然に現れた公三郎…鬼の面をつけたままの清十郎を前にして、少しも動揺を見せない。いつもと変わらないその穏やかな笑みが、逆に不穏な鳥肌を立たせる。
「璃子…こんなところで何をしているのだね?それに鬼と共にいるなど…なんと…」
「若様!違うのです…この方は…」
「…なんと好都合な。」
「…え?」
璃子はわが耳を疑った。今何と仰ったのか…何を好都合だと…?
「璃子…下がっていなさい。」
清十郎が動揺する璃子の前に立ち、公三郎と直接対峙した。
「お久し振りです、兄上。」
公三郎はこの場に似つかわしくないほどの満面の笑みを清十郎に向けた。鬼が清十郎である事を最初から知っていたような口ぶりで。
「その呼び名をお前が口にするな、白々しい。必ずや伊國の中に潜んでいると睨んでいたぞ。よもやお前の方から出向いてくるとはな。」
「いや…そろそろ時期かと思いまして。刈り取りのね。」
公三郎はなおも笑みを絶やさず、清十郎に言葉を返す。しかしその表情とは裏腹に、言葉の真意はおぞましいものだった。
「一体…一体どういうことでございます?!若様…何故そのような…」
「璃子、心を乱すな。」
清十郎は静かに璃子を一喝すると、おもむろに鬼の面を外し、その緑の目を直接公三郎に向けた。
「公三郎、お前が鬼だったということだな。」
清十郎の声が辺りの空気を震わせる。その震動には僅かに緊張と怒りが含まれていた。
「…いいや、違う。」
公三郎は不敵に声を響かせる。いつもより格段に低くなった声…あの穏やかさは一瞬にして姿を消し、代わりにゾッとするような雰囲気を纏っていた。
「鬼が公三郎に成りすましていたのだ。」
そう言って前屈み気味の体勢から上目遣いに歪んだ笑みを見せた。
「そんな…っ…それでは公三郎様は?!」
「璃子、そなたには私の口からその答えを教えたではないか。」
公三郎は不穏な笑みを浮かべたまま、その瞳を璃子に合わせた。
「…子の山。」
「…っ…!」
公三郎の言葉に息を呑んだ途端に璃子の体は震え始め、涙がボロボロと零れだした。邪気に飲み込まれた時と同じ…手足の先が痺れ、呼吸が浅く不安定になっていく。清十郎は僅かに首を動かし、背後の璃子の様子を見遣った。
このままでは鬼に飲まれる…
清十郎は公三郎への警戒を解かないまま後退りし、より璃子の近くへとにじり寄った。
「璃子、そなたはこれ以上鬼と口を利いてはならぬ。」
「…うっ…うぅ…」
「落ち着いて、私の背だけを見ていなさい。」
「…は、はい…清十郎様…」
璃子はしゃくりあげながらも清十郎の言葉に何とか自我を保ち、目線を清十郎の背に合わせた。赤い丈の短い着物にしっかりと結んだ襷…浅い呼吸を繰り返しながらも、徐々に璃子は鬼の邪気から逃れ始めていった。懐には赤い手ぬぐいが、手には風呂敷包みが、そして目の前には清十郎が…今一人で邪気に対峙しているのではないのだと、璃子は自分を奮い立たせた。