明くる日に、璃子は昼過ぎの仕事が一段落する時間を待って急ぎ山へと向かった。傍らに“桶の箍(たが)”だと嘘を付いた代物を抱え、一刻も早く伊國家から距離を取ろうと息を切らせて山を登る。今までは少しでも伊國家に逃げ込みやすいようにと山奥へ分け行ってはいなかったが、真実を知り始めて今や安全と思えるのは山の中、とりわけ清十郎の近くであった。
「いずこにいらっしゃるのかしら…」
璃子は息を整えながら呟いた。その脳裏に風に吹かれ静かに佇む精悍な姿が浮かぶ。珍しく邪気を微塵も感じない安堵は、同時に清十郎を捜すあてのない不安をもたらす。酉の山だけでも十分に広い上に、子の山、卯の山にいる可能性もある。その一方で璃子には時間がない。夕餉の支度が始まる日暮れまでに、再び伊國家に戻らなければならない。今が夏であればどんなに良かったか…秋の短くなった日がひどく恨めしい。
「あ…」
不意に璃子は希望を見つけて思わず顔が緩んだ。オニヤンマ…大きな蜻蛉が誘うように璃子の前を横切る。それは邪気が近くにいない証、オニヤンマは邪気のある時には出ては来ない。そして清十郎への道標でもある。以前初めて山の中で清十郎と話をした時を思い出させる。璃子はわき見もせずにオニヤンマの後を追いかけた。よもや清十郎を捜す心を感じ取って姿を現したか。しかし前回と同様に、オニヤンマはそんな璃子にお構いなしに飛んでいく。
「や…やはり待ってはくれないものね…」
璃子は相変わらず転びそうになりながらも、それでも見失うまいと一度も目線を下げずに追いかけた。オニヤンマも知っているのだろうか…清十郎の下が一番の安全圏であると。オニヤンマが清十郎の元を目指す理由は未だ分からぬも、同じく鬼の名を負うもの同士どこか惹かれあうのかもしれない。かくいう私は鬼の字を一切持たないけれど、それでも清十郎様にお会いしたいと切に願う…幾度となく。清十郎様…あの方は間違いなく伊國の当主の器であった。
「しまったわ…」
ふと物思いをした刹那に、璃子はオニヤンマを見失ってしまった。ただでさえ森の中に紛れやすい模様をしているため、常に目を凝らすようにしていたのだが、考え事をしたがためにそれが疎かになってしまったのだ。
「これでは探しようが…」
璃子は立ち止まって不安な面持ちで辺りを見回した。日毎冷たくなってきた風が、いつもと変わらず木々を揺らす。同じそのざわめきも、心持ちで如何様にも聞こえてくる。今は不安を掻き立てる音…雨のように落ちてくる落ち葉が肩に触れては吹かれていった。
「…清十郎様…」
璃子は泣きそうな声で小さく呟いた。標をなくし、あてもない。オニヤンマの姿に一度は近くに感じた愛しい影が、どんどんと遠ざかって行く。そんな思いが風に吹かれて離れていく落ち葉に清十郎を重ねさせ、どうしようもなく寂しいと感じたのだった。
「なんという声で私を呼ぶのだね、璃子。」
不意に脇の木の影からくぐもった声が返る。璃子は慌てて顔を上げてそちらを見遣った。目に映るは黒い鬼の面…以前は恐ろしさしか感じなかったそれに、今は安らぎを見ている。行方をくらましていたオニヤンマも、いつの間にか清十郎の側を泳ぐように飛んでいた。
「清十郎様!」
璃子はこれ以上ないほどの笑みを浮かべ、清十郎に駆け寄った。面の下でどのような表情でいるのは掴めないが、それでも彼は静かに佇んで璃子を迎えた。懐かしい親しみ…清十郎も感じているのだろうか。
「お会いしとうございました、清十郎様。」
「この度は邪気がないようだね。」
「えぇ、清十郎様のおかげです。この手ぬぐいがあればこそ…」
「それを嫌がる者はいたか?」
「あ…いいえ、どなたも…」
「そうか…」
清十郎は璃子の言葉に僅かに考え込んだ。清十郎の考えでは、あの自身の血に染まった手ぬぐいで必ずや鬼が正体を現すはずだったのだ。それがなかったとあらば、まだ山神は時期ではないと見ておいでなのだろうか。自身の名を璃子が思い出し、とうとうその時が来たのだと踏んでいた。それとも鬼の力が我が血を上回ったか…?
「…清十郎様、とある和歌をご存知ありませんか?」
「…和歌?」
清十郎の思考を遮って切り出した璃子の問いに、清十郎は思わず聞き返した。
「“名にし負わば…”で始まる和歌でございます。」
「“名にし負わば”…覚えがあるな。全ては思い出せぬが…。確か山神を奉る歌だったはず。」
「はい、私それを見つけたのです。そしてその中に村の名があると感じてならないのです。山神の和歌…“名にし負わば”…」
「しっ…!」
清十郎は何かを感じて咄嗟に璃子の口を閉ざした。面の下で明らかに緑の瞳が辺りを探っている。璃子はその時になって、ようやく清十郎の行動の原因を感じ取っていた。遠くの方から何かべっとりとした禍々しいものが、病的な歩みでこちらに向かってきている。先程まで近くにいたオニヤンマも、いつの間にかそれを恐れてか姿を消していた。
「やはり来たな…」
清十郎はさも忌々しげに呟く。
「あ…あの…清十郎様…」
「なんだ。」
邪なるものの存在を感じ取り、清十郎の言葉は最初の頃のような冷たさに戻っていた。
「私…先程手ぬぐいを嫌がる者はいないと申し上げましたが、どうも腑に落ちないことが…」
「…というと?」
「一つには長らく篭りきりだった大旦那様がお見えになりました。しかし尋常ならざるお姿で…、とても正常な人であるとは思えませんでした。」
「大旦那が?」
清十郎は今一度璃子の方に向き直った。それでも鬼の気配への警戒を少しも解かずに。
「よもや…それはないと思っていたが…」
璃子と同じような不可解を示す苦々しい言葉を、清十郎もまた口にした。璃子には清十郎がどのような想定をしていたのか分からなかったが、清十郎の物言いに彼の僅かな動揺が見られた。
「…それともう一つございます。」
璃子は機を見計らってもう一度切り出した。面の下の清十郎の瞳が、無言のうちに璃子に合わされる。
「若様…公三郎様のご様子もいつもと違いました。昨今寝込んでいらして…それでもお会いしたのですが、目が…」
「目が?」
「……貴方と同じ緑色…」
「誰の目がだい?璃子。」
不意に会話を繋げる言葉に、清十郎も璃子も同時にその方向を見遣った。静かに佇む公三郎…いつの間にか消えたあの邪気の代わりに、穏やかな顔で姿を現していた。