璃子は倉の中にあった風呂敷で、それをしっかりと包んだ。竜の装束ほど大きなものではないが、それでも幾分手に余る。だが何としても持ち帰らねば。喜一郎の言い付けがため以上に、今はそれが璃子の意志だった。神楽に使う装飾刀と扇を操る姿が浮かぶ。これがあれば必ずや清十郎のためになる…そう確信していた。
「さればこそ、あと一つ…」
璃子は風呂敷包みをしかと胸に抱いて暗い辺りを見渡した。村の名…それこそが均衡を崩す。この手付かずの倉の中に、鬼の手にかかっていない何らかの痕跡があれば、おそらく璃子自身も思い出すことができる。ある種の希望を抱いているせいか、倉の中は先程よりも明るくなったように見えた。しかし、かといって手がかりのあてがあるわけでもない。村の名を探すことは大旦那の言いつけではないのであって、倉の中にあまりに長くいるようでは大旦那とて不審に思うだろう。
急がねば…
璃子は一先ず風呂敷包みを傍らに置いて、つづらの蓋を元の通りに慎重に閉じようとした。しかし再びその手が止まる。くるりと蓋を返した刹那に、蝋燭の明かりに当たって何かが浮かび上がった。一瞬ただの汚れかと思った心を捨て、璃子は十分に目を凝らす。蓋の裏には何か文字が書かれていた…墨文字だが禍々しいものではない。腐食したつづらにあってひどく読みづらい、が…
「…和歌…かしら?」
璃子は定型的な五列の文章の並びを見て小さく口にした。目を細め、蝋燭の明かりがよく当たるように角度を変えて凝視する。
「“名に”…“名にし負わば”…?読みづらいわ…えっと…」
璃子は更に注意を凝らす。
名にし負わば
礎築かん
神社(かみやしろ)
宿りて守りの
みかみの山神
この村が出来た頃に誰かが詠んだ歌だろうか。つづらの文字の状態から察するに、とても古いものであるのだという事は感じ取れる。誰が詠んだか、記載はない。詠み人知らずの歌…どこか郷愁を誘い心に残る。
「みかみの…山神。」
最後の句を口にすると同時に何かが心を灯す。璃子は暫く自分の発した言葉の余韻に浸っていた。これは清十郎の名を思い出した朝と同じ感覚。耳元で誰かが囁きかけるような大事な言葉。それがもし目に見えるものであったなら、さながら天上から垂れ下がる神々しい蜘蛛の糸。璃子は今心中で、その糸を断ってしまわないように慎重に手繰り寄せている。未だその先は見えぬ、しかし忘れてはいけない…この和歌を。璃子はそう直感していた。
不意に倉の外から烏が大きな声で一声鳴いて、璃子は驚いて顔を上げた。倉の中では外の様子が分からないだけに長居をしすぎたか、烏は夕刻を知らせる。
「戻らなければ…」
璃子は胸に風呂敷包みを、心に郷愁の和歌を抱いて立ち上がった。相変わらず軋む階段を、蝋燭を取りこぼさないようにと慎重に下り、そして微かに差し込む紅い光へと急いだ。やはり少しばかり倉の扉を開けておいたのは幸いだった。迷うことなく外へと向かう。
「ふぅ…」
璃子は外へ出て安堵の溜め息をついた。入る時は倉の中がこの上なく恐ろしかったが、思いがけず多くの物が手中へと転がり込んだ。その正体は未だ分からぬが…鬼め、その悪行も次の新月を待たずに潰えよう。その思いと共に再び重たい扉を閉ざし施錠する。
さて…この鍵をうまく大旦那に返すことが出来ようか。まだ自室にお戻りになっていなければ或いは…。璃子は敷地内に敷き詰められている砂利の上を、いつもよりも音を立てて足早に歩いた。
「何をしていたのだね?璃子。」
そんな璃子を若干弱々しく聞こえる穏やかな声が呼び止める。この時ばかりは会いたくないと思っていた公三郎…具合が悪いのか青白い顔で佇む。喜一郎が確かに“寝込んでいる”と口にはしていたが…
「…それは?」
公三郎は竹箒を持つ手の逆に抱えている璃子の風呂敷包みを見咎めた。
「あ…これは…これはそこの裏で…。古い桶の箍(たが)でございます。朽ちて捨てられておりましたので片付けようと…」
璃子は咄嗟に嘘をついた。手に持つそれはちょうど大きな桶の直径ほどある物だったため、反射的に桶の箍(たが)なのだと口走った。倉の中にあった風呂敷の汚れ具合も手伝い、その言い訳も些か真実味を帯びている。
「…それはご苦労だったね。だが落ち葉掃きも疎かにしてはいけないよ。」
傍らに竹箒を持っている割りには落ち葉の片付いていない様子に、公三郎は釘を刺した。
「はい…申し訳ありません、若様。…何かお体の具合が優れないようにお見受けいたしますが…」
璃子は公三郎のあまりに青ざめた顔に、謝罪もそこそこに尋ね返した。公三郎の様子はほんの僅かに喜一郎に見たそれを思わせる。
「大したことではない。じきに良くなろう。ところで璃子…」
公三郎はそこまで口にすると、裸足のまま縁側から砂利の上へと歩みだした。重たそうな足取りで砂利の音を鳴らし、璃子の直前まで近づく。子供の頃以来、これほど公三郎と接近した事があっただろうか…何か不穏な空気を思わせる。公三郎はそんな不可解な表情の璃子に十分に近づき、そして小さく囁きかけた。
「…そなた、次はいつ山へ行く?」
璃子はその言葉に思わず顔を上げた。そして二の句を告げようとして公三郎の顔を見た途端に、その言葉を飲み込んでしまった。いつも穏やかな漆黒だったはずの公三郎の瞳が、何の因果か僅かに緑色に染まっていた。璃子はそれを見て、言葉もろとも息をも呑んだ。その瞳の緑色は、清十郎のそれと全く同じ色だったのである。