つづらは一目見ただけではまるで木箱にも思えるような色をしていた。多量の埃と僅かな腐食…本来ならば新しいつづらに変えるが相応しい。しかしつづらに限らず、倉の中は多くの物が手付かずのままであった。無理も無い…瑠璃姫たちが亡くなった頃より災いが続発し、とても倉を掃除するという雰囲気ではなかったのだ。村に何かあるたびにその対処に追われていては、せめて何事も無い事には気を煩わされたくないと思うもの。この倉もそういう経緯で人の手を離れていた。
「この中の物…」
璃子は傍らに蝋燭を置き、つづらにかけた手をひとまず止めた。喜一郎は中の物を&納しなければならないと口にしたけれど、だからといって良い物が入っているとは限らない。今まで長らく子の山神に邪なる奉納をしてきてしまっていた…知らず知らずのうちに。それにあの喜一郎の表情、笑い声。つづらを開けて、またあの不快な膜にとり込まれようものなら今度こそ命は無い。今璃子がいるのは山の中ではなく、閉め切った倉の中なのだ。自分が今ここにいる事を知るものなど喜一郎以外にはいない。誰かが…清十郎が助けに来てくださる可能性など、微塵もないのだ。
「疑っては駄目…疑っては…」
璃子は瞳を閉じて念仏のように自身に言い聞かせた。確かに先の喜一郎はおよそ正常とは程遠いものだったが、璃子が懐に入れている赤い手ぬぐいを嫌がる素振りを少しも見せなかった。その意味で喜一郎が糸を引いている可能性は極端に下がることになる。しかしあのゾッとするような顔を前にして、どうしても疑いを晴らしきれない。もしや本当に…
「違う…違う違う…!」
その思いを跳ね除けようと、璃子は声に出して否定を繰り返した。ぎゅっと瞳を閉じ、両手で顔を覆う。その瞼にしっかりと焼き付けられてしまった、喜一郎の恐ろしい姿を遠ざけて、何とか昔のふくよかだった頃の主人を思い出そうと必死になっていた。思い出すのだ…喜一郎は長く仕えてきた家の当主ではないか。瑠璃姫たちが亡くなった時に奔走していた姿をちゃんと知っている…!言いつけを守らなければ…!
璃子は意を決して固く瞳を閉じたまま、思い切ってつづらの蓋を開けた。独特な臭いと埃が一気に舞い上がる。邪気の気配は…ない。
「…ケホ…」
璃子は微かに咳き込みながら、十分に邪気が無い事を確認し、恐る恐る目を開けた。その中にあったのは神楽の採物…大きな竜頭が目に入る。つづらいっぱいにその体となる布を埋め、僅かな金が蝋燭の明かりに煌いていた。見たことがある…小さい頃に山神に捧げるために秋祭りに演じられていたものだ。
「まさかこれを奉納しろと…?」
璃子は思わず躊躇った。自分の体の何倍もある竜の装束を、人知れず持ち帰るなど不可能だ。まずは母に見咎められ、公三郎にも必ず問われる。喜一郎の真意が何処あるのか分からないが、こうして倉にいることも、つづらの中身を持ち出すことも、そしてそれを奉納する事も…知られたくはないはず。しかし今目にしている装束は大の大人でも密かに持ち帰るなど致しがたいもの。さてどうしたものか…いや、それ以前にこの竜の装束が何になるというのだろう?
「…あら?」
璃子はふと竜の体に隠れるようにしまわれていた、もう一つの物の存在に気が付いた。つづらの蓋を傍らに置いて、上等な絹の竜の体から慎重にそれを引っ張り出す。揺れる蝋燭に炎に気を遣いながら、物音を極力立てないようにゆっくりと。
「これは…」
璃子は古びたつづらから出てきた物を掲げ、そして恭しく見つめた。その物自体も、その物の持つ意味も璃子は十分に知っていた。竜の装束に守られて鬼の手にかからずに済んだか、それとも鬼が手出しできなかったのか。いずれにしても形勢を左右する要になるもの。
これこそが大旦那・喜一郎の真意だったとしたら、まさか喜一郎は…