「…はぁ…っ」

璃子は倉の前に着いて震えるような溜め息をついた。指の先が微かに震えているのが分かる。鼓動が冷たく感じられ、そのあまりの脈動に体までもが早鐘を打つようであった。大旦那様…久方振りにお目にかかったと思ったら…いつからあのようになってしまわれたのか。あれではまるで…

「…駄目…」

璃子は小さく呟いて、再び浮かんだ恐ろしい考えを頭から引き離した。考えすぎては駄目…今はただ言い付け通り、つづらの中身を持ち帰るだけ。それにあまりの恐ろしさに思考が疎かになっていたが、結果的に自分が望んだ形になった事に変わりはない。村の名の手がかり…もしかしたら倉の中に眠っているやも知れぬ。これ幸いと受け取って、この機を活かさなければ…

 

 璃子は思わず持ってきてしまっていた竹箒を倉の入り口の側に立てかけ、古びた鍵穴に同じくらい古い鍵を差し込んだ。右へ左へ…何度も細かく動かして、ようやっとギギギ…と音を立てて解錠した。鍵からは動かすたびに錆がパラパラと落ちる。

「よいっ…しょ…」

璃子は重たい扉をどうにかこうにか開けた。暗闇に慣れていない目は、すぐには倉の中を映さない。真っ暗闇ともとれる倉の中を見て、璃子は拳を胸の辺りで握り締めた。指先の震えが治まったとはいえ、まるで氷のような冷たさであった。両の足が倉の中を拒んでか、最初の一歩をどうしても踏み出す事が出来なかった。

闇は夜…新月の夜。連想させるは真の鬼。

清十郎が「安全ではない」といったその真意が、この倉にあるのだとしたら、再び倉の戸をくぐって外の空気を吸うことができるかどうかも分からない。清十郎様…瑠璃姫様…どうかお守りください…。そう心に強く願い、懐の赤い手ぬぐいと清十郎の姿を重ね合わせた。瞳を閉じて少しずつ呼吸を整え、鼓動を意識的に小さくしていく。そして最後に長く深い溜め息をついて、不安を心から吐き出すと、今一度辺りを見回して喜一郎の言いつけを守り、人知れず倉の中へと入っていった。

 

 

 

 

 倉の中は一段とひんやりとしていて、かび臭いような埃臭いような独特の臭いがしていた。ようやく暗がりに慣れた目でも、中の様子は容易には見えてこない。璃子は扉の付近に常備されている蝋燭と火打石を手に取ると、まずは倉の中に明かりを持ち込んだ。揺らめく小さな炎に蜘蛛の巣が儚く煌く。

この倉の中に足を踏み入れたのは幾年振りになろうか…。小さい頃に母と何度か入ったのは覚えている。齢いくつだったか…暗闇がひどく恐ろしく、母の着物の裾を掴んだきり放さずにいた。今にしてもそれは同じ事。闇の中にあって、整えたはずの呼吸や鼓動が今また不安定になっていく。暗闇があの時後を付けてきていた醜い邪気を思い出させる。今再びこの倉の中で出くわそうものなら…。璃子は懐に肌身離さず忍ばせている赤い手ぬぐいを握り締めた。

 

大丈夫…私には清十郎様のお力がついて下さっている。

 

璃子は自分に強く言い聞かせて、倉の中へと歩を進めた。蝋燭の明かりに、周りに積まれている荷物の高さが伺える。璃子は身の安全の確保のために、あちこちに張り巡らしたい目線をぐっと堪え、出来うる限り周りを見ないようにと努めた。見ぬは極楽知らぬは仏、倉の中には何もいないのだと思い込んでいれば、何とか奥へと入っていける。自分の立てた物音にいちいち驚いている事を些か情けないと思いながらも、倉の中にひっそりと居座る階段の元へ辿り着いた。所々腐食した階段は、足を乗せた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど、とても頼りなく映る。喜一郎がわざわざ璃子を選んで言付けをした理由の一つは、まさにそれがためであった。いくら不健康なほどに痩せた喜一郎の体でも、璃子の体の軽さには敵わない。階段を登りきるだけの身軽さは、伊國家の中では璃子以外にはいなかったのである。勿論それ以外の何かを秘めて喜一郎が言付けしたことにも、璃子は僅かながら気が付いていたのだが。

「相変わらず…急だわ。」

璃子は恨めしげに独り言を呟いて、四つん這いになって階段を慎重に登り始めた。ギィギィというやけに大きく聞こえる音を伴いながら、一歩上がっては蝋燭を置き…一歩上がっては蝋燭を置き、火種を絶やさぬように上がっていった。階段の中段で璃子は階下を見下ろした。僅かに開けておいた倉の入り口からは細い光が差し込んでいる。蝋燭の明かりは思っているよりもずっと明るいけれども、入り口からの光なくしては倉から出られないようにも感じられた。あの僅かな隙間が、外界と倉の中とを繋いでいる。今は手元を照らす蝋燭の明かりよりも、遠くに微かに差し込む光の方が璃子にとっての希望の光であった。早まる鼓動に≠ヌうか絶えないでと切実に願う。

 

 

 

 

 璃子はやや息を切らせながらようやっと階段を登りきった。二階は更に埃臭い…蝋燭の明かりだけが生命の証であるかのように、何一つ暗闇の中で動きはしない。普段は嫌がる鼠の存在をこんなに請うことは、生涯で今時分くらいだろうと璃子は思った。

「上がってすぐのつづら…」

璃子は空気の冷たさと恐怖によって僅かに震える体を堪えながら、喜一郎の言付けを囁くように口にした。蝋燭の明かりの範中には、古い木箱に並んで確かにそれと思しきつづらが置いてあった。倉の中につづらはいくつもあるけれど、階段を上がったすぐの場所には璃子が目にしたつづら一つしかない。それを確認すると蝋燭を高く掲げ、今一度二階の様子を目線で探った。

小さな窓すらも閉め切った倉の二階は、僅かに入り口を開けておいた一階にもまして大変に暗いものであった。恐怖、疑心、不安…様々な負の思いが盲目にさせたか、蝋燭の明かりがあるにもかかわらず、目的のつづら以外の物を上手くその目に捉えることができなかった。目に見えない恐怖がじわじわと心を染めていく。

相手は目に見えるだけが全てではない存在…けれど同時に禍々しい気配を消しきれないもの。倉の二階には生き物の気配が全く無いように、あの不快な気配も感じられなかった。今この場には、あの邪気がないものだと思っていい…はず。それでも尚躊躇う璃子を、足元で軋む階段の音が後押しする。璃子は意を決して二階へと上がりこんだ。

 

 

 

    

 小説TOP(オニヤンマ)