村の名を思い出すことは、清十郎を思い出すよりもはるかに困難な事であった。清十郎の言ったとおり、村の名はあらゆる記述があの黒い墨で塗りつぶされ、いずれも知るには至らなかったのである。鬼山村…その(あざな)がこの村を支配している。知らぬ間に名を奪い、その記憶すら歪ませるとは、げに鬼とは恐ろしきもの。その鬼がよもや伊國家と関係があろうとは…。大旦那・喜一郎のことも公三郎のことも信じたい…しかし璃子が今最も信じたいのは、他ならぬ清十郎であった。その清十郎が安全ではないと言った伊國家。村の名を探していることを確かに知られるわけにはいかぬ。けれど…屋敷中のそれと思しき場所は、あらかた調べつくしてしまった。人づてに尋ねたり、倉の中を探るという手は残されているものの、それをして真なる鬼に感づかれようものなら、わが身の危険以上に清十郎への負担にもなる。

 

 私はあの方が私にしてくださったように、私も助けて差し上げたいのだ、あの方を。

 村の名…なんとしても思い出さなければ…

 

璃子は紅の手ぬぐいのある懐に手を当てながら、眉間にしわを寄せてぎゅっと瞑った目を、決意を込めて見開いた。

「あら…?」

璃子はその目に思いも寄らぬものが映り、思わず眉間に込めていた力を抜き去った。庭で落ち葉を掃いていた璃子から、やや離れた縁側を歩く人影…長らく姿を見せなかった伊國の大旦那・喜一郎がそこにいた。その姿はいつになく老け込み、顔はおよそこの世に生きるものとは思えぬほどに青ざめている。

 

お具合が優れないでいらっしゃるのかしら…?

 

璃子は庭掃きの手を止めて喜一郎を見ていた。病気ということを聞いた事はなかったが、長い間自室に篭ったままだった喜一郎と健康を結びつける事は大変に困難な事であった。今の喜一郎の姿は、まさにそういった想像と違わないもの。小さい頃の記憶の内にあるふくよかな喜一郎からは考えつかない姿に成り果てている。

 

鬼…………まさか。

 

璃子は囁くように心に浮かんだ裏切りにも等しい考えを、小さく頭を横に振ることで払拭した。今この瞬間に忌むべきは疑心…鬼に隙を見せてはならない。

 

 

 

 

「瑠璃子…」

不意にしわがれ声に名を呼ばれ、璃子は慌てて顔を上げた。それは蚊の鳴くような小さな声で、璃子は一瞬空耳だったかとさえ思った。

「あ…はい、大旦那様…!」

璃子は自分に向かって手招きしている喜一郎を見て、手に竹箒を持ったまま小走りで駆け寄った。喜一郎はそんな璃子を縁側に屈みこんで迎える。何か公に話したくないことでもあるのか、近寄るごとに鮮明になるその顔は、絶えず周りを警戒するように落ち着きがなかった。

「いかがなさいました…?」

璃子は喜一郎から数歩離れた位置で止まり、おずおずと尋ねた。その距離は主従の関係がもたらすものであり、また清十郎の忠告によるものでもあった。しかし喜一郎は更に近寄るようにと尚も手招きをする。

「そなたに急ぎ取って来て貰いたいものがある。」

ただでさえ聞き取りづらいしわがれ声が、ひそひそと話す。

「取って参るもの…でございますか?」

「そうじゃ。そなた奥の倉を存じておるな?あの中にある。階段を上ったすぐ先…つづらの中じゃ。その中の物…急ぎ奉納せねば…」

喜一郎は璃子にそう言いながら、言葉の後半は独り言のように呟いた。

「その…中の物とはいったい何なのでございましょう?」

「それは言えぬ…!だが行けば分かる。これを…」

そう言われて差し出した璃子の両手に、喜一郎は震える手で鍵を乗せた。古びて錆び付いた鉄の鍵…璃子が入りたいと思っていた倉のもの。璃子は望んでいた事とはいえ、あまりの奇遇に些か気味の悪さを覚えた。

「で…では…母とともに探して…」

「ならぬ。そなた一人で参れ。倉に行く事を誰にも知られてはならぬ。特に公三郎に見られることは決して許さぬぞ。」

しわがれ声は低く深い畏怖を伴って響く。

「あやつめ…今は折よく寝込んでおるわ…ざまのない…ククク…」

生気の薄い青ざめた顔で歪んだ笑みを浮かべる喜一郎に、璃子は思わずぞっとした。その表情もさることながら、再び独り言のように呟いたその声が、璃子の全身に鳥肌を立たせていた。

「さぁ…参れ。良いな、誰にも知られてはならぬぞ。つづらの中の物は後生大事に持ち帰り、そなたが再び子の祠に奉納するのだ。」

「は…はい、すぐに…」

璃子は震えて動かなくなりそうだった足をやっとのことで地から引き離し、伊國の倉へと急いで向かった。今はつづらの中身が何なのか、喜一郎の真意がどこにあるのか、まったく考えられなかった。ただあの恐ろしさから逃げ出したい一心で足を速めていた。

 

 

 

    

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