「何故…私の名を見抜いた?」

「瑠璃姫様が夢をお与えくださいました。貴方に初めてお会いした日の夢…やはり清十郎様に間違いないのですね?」

「……あぁ」

その返事と同時に風が辺りを駆け抜ける。木々の擦れあう音が二人の間に響いた。

「私…貴方がお亡くなりになったものだとばかり思っておりました。お恥ずかしい話、貴方のお名前すら思い出せませんでした。」

「…どちらも真なる鬼の仕業だ。」

「一体何がどうなっているのでしょう?真なる鬼とは一体何者で、何が目的なのでしょう?貴方や村の名を封じ、災いをもたらす…何処で糸を引いているのやら…」

「それは分からぬ。しかしそなたが私の名を思い出したことは、確実に大きな一歩になる。感謝するよ。」

そう言って清十郎は柔らかな表情を見せた。璃子は名を思い出したことをさほど大きなことではないと感じていたが、清十郎にとってはこの均衡をとうとう崩すにふさわしいものだったのだ。

 

 

 

「これまで貴方に何がったのか、お聞きしても…?」

「…いや、心苦しいが今はまだ全てを話すわけにはいかぬ。あの紙の出所が何処であれ、今の伊國家は大変に危険だ。そなたはまだあの家で過ごさねばならぬ。真実を知りすぎることは決してそなたの身を守るものにはならない、むしろ危険だ。今はただ私の名を知ったことだけを隠し、後のことは知らないままでいなさい。鬼は小さな疑心から心に入り込む。隙は最初から作らないほうがいい。」

清十郎は落ち着いた口調で璃子を諭した。幼き日に遊んでいた折にもそうであったように。

 「…どうした?璃子。」

璃子の目が見る間に潤んでいく事に気がつき、清十郎は穏やかに尋ねた。

「なんでも…何でもないのです…。ただ貴方がこうして生きていらして、またお目にかかれたことが嬉しいのです。お亡くなりになったものと教え込まれておりましたが、それでもお会いしたいと常々思っておりました。」

そう話す璃子の目からポロポロと涙が零れる。細い絹糸のようだった繋がりは、今や幾重にも重なる注連縄(しめなわ)のように揺るぎないものとなっていた。

「…だが私ももうこのような姿だ。そなたがおぼゆる$エ十郎とは似ても似つかぬ。」

「いいえ…どのような御姿でも清十郎様である事に変わりはありませんわ。お小さい頃より私を諭してくださったり、助けてくださったり…何より村をお思いになるお心は、伊國のご嫡男そのもの…」

「それももはや過ぎたこと。今や鬼と称され、伊國とは縁の切れた身。$エ十郎は死んだ。」

「しかし…貴方はこうして生きておいでです。何故ご自分の名を仰いませんでしたの?」

不要の誤解など、その名一つで一蹴できようものを。よもや自分の名を忘れたわけではあるまいに、何故<Zイなどと仮の名を名乗ったのか。

「…伊國とこの村を守るために亡きものとなった我が名、それを口にして均衡を崩すわけにはいかなかった。」

清十郎はその言葉を言い終えてから、璃子に目線を合わせる。

「知れば混乱を招き、ますます真なる鬼の力を強めるだけ。互いに鬼の正体を知らずに探り合うのが、一番手っ取り早かった。」

「真なる鬼は…貴方の正体を知りたいのでは?」

「いや…名の言霊はあやつにとっても脅威なのだ。私の名を正しく思い出されれば、邪気を脅かすものに他ならない。それ故に知ること、知られることをひどく恐れた。だから璃子、そなたが私の姿に恐怖を抱かずに、自ら私の名を思い出してくれたのは大きな力になるのだよ。」

清十郎はその言葉を言い終えるまで、決して璃子に合わせた目を逸らさなかった。それが璃子に信頼をもたらす。

 

 

 

 

「璃子、そなたはもう行きなさい。私も急ぎ子の祠へ行かなくては。」

清十郎は再び黒い鬼の面を顔へあてがう。

「子の祠へ?」

「昨今子の山神の力が弱まっていると感じていた。おそらく今まで奉納されてきた全てに呪歌が記されているのだろう。それを浄化せねばならぬ。」

「…さもあらばこれを…」

璃子は懐から自分の手ぬぐいを出すと、未だ血の止まらぬ清十郎の左手に巻き始めた。清十郎が自らで巻いた手ぬぐいは、その止まらぬ血にもはや赤い布のようになっていた。

「待ちなさい、璃子。」

清十郎は璃子の手を止めさせ、血に染まった真紅の手ぬぐいを取ってそれを代わりに璃子に差し出した。

「あまり気持ちの良いものではないが、これを持って行くといい。私の血には邪気を浄化する力がある。必ずやそなたの身を守ろう。」

「あぁ…忝のうございます。」

璃子は血に染まった手ぬぐいを恭しく受け取った。清十郎の血に何故そのような力があるのかは分からなかったが、その力の実証を今正に目の当たりにしたからだった。

「それを必要以上に毛嫌う者がいたら注意なさい。その者が糸を引いている可能性が高い。」

「はい、清十郎様。何か私にできる事はございませんでしょうか?」

「…では一つ…」

璃子の言葉に清十郎は辺りに響かないような声で囁いた。

「私の名を思い出したように、この村の名を思い出して欲しい。おそらくは真なる鬼の仕業で巧妙に隠されているかもしれないが…」

「分かりましたわ、必ず。」

「ただし他の者…とりわけ伊國に関わる者に尋ねまわってはならないよ。村の名を探していることを決して覚られぬように。」

「仰せの通りに、清十郎様。」

璃子は面の下の清十郎の瞳を見るように力強く頷いた。村の名を取り戻す事が清十郎の言う°マ衡を崩すことになるのだ。真なる鬼の正体が割れ、この村から往ぬれば災いも無くなり、清十郎も戻れるやもしれぬ。

「さあ、行きなさい。さも何も無かったかのように振舞うのだよ。」

「はい、清十郎様。貴方もお気をつけて。」

「案ずるな。」

そう言って清十郎は再び人外な速さで山道を子の方向へ向かっていった。璃子はその姿が見えなくなるまでその場にいたが、やがて赤い手ぬぐいを大切に懐にしまい、ゆっくりと伊國の敷地へ帰っていった。

 

 

    

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