不意にドスッと鋭く地を貫く音が耳に入る。
「あ…!」
璃子はその音に一瞬気を取られ、足がもつれて倒れこんだ。呼吸困難に陥りそうなほどに息を切らせて。
「あれほど用心しろと言っただろう。」
肩越しにくぐもった声が聞こえてくる。装飾刀を容赦なく地面に突き立てて、こちらに背を向ける影。
「セイ殿…!」
璃子は不謹慎だと思いながらも、心底嬉しそうにその名を呼んだ。変わらぬ姿…体に僅かに傷跡が残っているが、あの夜の傷は完全に癒えているようだ。
「これで決定的だな。」
セイは璃子のそんな思いを聞き流すように、すっと立ち上がって装飾刀の突き刺さる先を見た。そこにはどす黒くドロドロとした不定形な塊が、いかにも醜く溶け出していた。
「そ…それは…?」
「邪気の塊だ。ご丁寧にもそなたの後をつけ、人気の無い場所で憑り殺そうとしていた。」
「まさか…」
「…璃子、そなた何を持っている?」
セイは黒い面をつけたまま振り返った。穏やかな声色とは裏腹に、変わらず厳しい面持ちの鬼の面。再びあの端正な素顔は閉ざされてしまった…けれどそれでも良かった。尋ねたセイの言葉がとても優しかったから。
「何をと仰いましても…」
璃子は不可解ながらも袂や懐を探った。出てきたのは重みのある包み紙。厚手の和紙に&納の文字が記されている。
「…貸しなさい。」
セイはそれを鋭く見咎めて、璃子からその包みを受け取った。そして璃子が決して開けてはならないと言われていたそれを、有無を言わさず開封した。璃子にはセイのその行動を止める事ができなかった。
「手を。」
「あ、はい。」
セイに言われ璃子は咄嗟に両手を椀状に添えて差し出した。セイはその手に包みの中身…奉納金と種籾を乗せる。
「それを暫し預かっていなさい。」
セイはそう言って残った和紙をピンッと広げ、それを静かに地面へとおいた。そして今やすっかり邪気の消えた場所から装飾刀を引き抜き、おもむろにその切っ先を握って自らの手を切った。途端にセイの鮮血が溢れて滴り落ちる。セイは何も言わないまま、その血で数滴和紙を染めた。更に血に濡れた指先で刀の腹に一本線を引いて片膝をつくと、真っ直ぐ和紙に刀を突き刺す体勢をとった。
「息災退散!」
その掛け声と共に鋭く装飾刀を突き立てる。先程邪気を貫いた時と同じ音、同じ振動が辺りを震わせる。装飾刀の刺さった先では、和紙の上に滴った血と刀の腹の赤い線が和紙に吸い込まれるように消えていった。それと同時に誰のものともつかないおぞましい呻き声が上がる。複数のくぐもったような断末魔にも等しい声。璃子の体に一気に鳥肌が立つ。その声の主は和紙…セイが刀を突き立てた瞬間、何らかの黒い文字が無地だったはずの和紙に浮かび上がったのが璃子にも見えた。見覚えのある黒い墨…瑠璃姫の家系図の嫡男の名を消していた色と全く同じ。璃子は瞬きもしないで和紙の変化を捉えていた。浮かび上がった文字は、邪気と同じようにドロドロとに醜く溶け出していくと和紙を真っ黒に染め、そして自然発火して塵一つ残さず消えていった。
「い…今のは…?」
「邪気を呼び寄せ憑り殺すようにという意味合いの呪歌だ。これを書いたのが誰か、分かるか?」
「…いえ、私は伊國の若様…公三郎様からのお達しで預かったもので…。公三郎様も大旦那様からお申し付け頂いたようです。」
「…毎年同じように奉納されていたのか?」
「はい。私がお持ちするのはこれが初めてでしたが…」
「なるほど…そういう訳か。」
セイは苦々しい声で何かに納得すると、懐から手ぬぐいを取り出し二つに裂いた。その片方を血にまみれた左手に巻き、もう一方で璃子の手に乗せていた奉納金と種籾を包んだ。
「璃子、そなたは適当に時間を見て帰りなさい。子の祠へは私が行く。」
「いえ…!貴方がいらっしゃるなら私も参ります。」
「ならぬ。あの場所はもはやそなたにいい影響を及ぼす場所ではない。」
「しかし貴方はそこへいらっしゃるのでしょう?」
「私の場合は話が別だ。だがそなたが行く事は私が許さぬ。私の言うことを聞いて帰りなさい。」
セイはそれだけ言うと素早く踵を返し、璃子がついて来れぬくらいの速さでその場を後にしようとした。璃子が来ることを拒む背中…逃せばまたいつ会えるかも分からない。
「お願いです…!今しばらくお待ちを……清十郎様!!」
璃子は咄嗟に鬼の名を呼んだ。それは夢で囁かれた嫡男の名。その言葉にセイの足が途端に止まる。
「…何故…その名を…?」
セイはゆっくりと振り返った。鬼の面は未だつけたまま…
「貴方のお顔を拝見してから、貴方の御名の心当たりを探しておりました。貴方は瑠璃姫のご嫡男、清十郎様でございましょう?」
セイは言葉を返さず、璃子の言葉を聞いていた。森の中に佇む単身痩躯…その心に何を感じているのかはまったく掴めない。
「…名を思い出すとは…」
ややあってセイは呟き、そして面を留めていた紐を解いた。今再び璃子の前にはセイの素顔が現れていた。相変わらず短い白髪、緑の瞳に浮かぶ三日月、その端正な顔付きに間違いなく懐かしさを感じる。小さい頃に目にしていた姿とは随分かけ離れてはいるけれども、その声や立ち居振る舞いは何ら変わっていなかった。