清十郎と璃子は、人知れず伊國家の敷地へと戻ってきた。二人がこうして敷地内を歩くのはどのくらい振りになろうか。庭の片隅には当時幼子であった清十郎・公三郎・璃子の幻影が浮かぶ。子犬のようにコロコロと遊び育つ日々はとうに過ぎてしまった。今はただ庭の木の茶色い落ち葉が、池に小さな波紋を立てる。

「…静かだな。」

裏門から伊國の庭に入り、そして屋敷の縁側を歩く清十郎が小さく呟く。その足は迷う事なく喜一郎の部屋を目指す。

「えぇ…静かになってしまいました。」

そしてこれからはもっと静かになる。せめて清十郎が戻るなら、どんなに良かったか…しかし戻らぬと決めた清十郎の意志は固い。

「璃子、村の名を取り戻したことを忘れてはいけないよ。」

清十郎は璃子の心持ちを鋭く察して諭した。それと知らぬ内から清十郎を慕っていたのだ、血縁を知って尚募る慕情は致し方ない。

「三神村は鬼の呪縛から離れたのだ。これからは元のように活気づく。それに…」

清十郎は言葉の途中で立ち止まり、目の前の障子をスラッと開けた。部屋の中には片隅で体を丸めてうずくまる喜一郎の姿があった。つい先日璃子が目にした病的な姿よりも、格段に重い空気を纏っている。人知れず伊國の母屋に足を踏み入れたとはいえ、部屋の障子を開けた清十郎と璃子にまったく気が付くことなく、薄暗い中で明かりを点さず、虚ろな目付きでブツブツと何かを呟いていた。

「…大旦那もじきに元に戻る。」

清十郎は緑の瞳に憐れみを浮かべ、昔とはすっかり容姿の変わってしまった喜一郎を見据えた。その胸中で喜一郎を何と呼んだか、僅かに間をおいてから璃子に目線を移した。

「…はい。」

璃子はその目線を受けて小さく頷き、部屋に入る清十郎の後に続いた。瞳の中の三日月が消えたとはいえ、未だ白く変色したままの短髪と緑の目。今一度清十郎が伊國の母屋に戻った事に、璃子は遠い記憶から幼い頃の事を思い起こしていた。当時一体誰がこのようになることを予想しただろうか。伊國の当主を継ぎ、いずれは三神村を支える礎になるはずだった兄弟は、手から流れ落ちる砂の如くいなくなってしまった。瑠璃姫をも亡くし、今や何が伊國に残るというのか。三神村が蘇ったところで、伊國は死んだとすら思えてならなかった。

 

 

 「璃子。」

今にも泣きそうな虚ろな表情の璃子に、清十郎は再び振り返って名を呼んだ。

「お前が心配する事はない。鬼によって変えられてしまったものが、元のように戻るだけ。伊國も三神村のように蘇る。」

「…けれど、還らぬものもございましょう?」

浮世とは常に大切なものほど失いやすいもの。山神も三神村も伊國家も、何もかも璃子にとっては大切であったが、それ以上のものはどれほど望んだところで還りはしないのだ。

「璃子、そなたは優しいな。」

清十郎はそう言って、静かに璃子の頬を撫でた。それだけで泣きそうな心が少しずつ緩和されていく。

「…だからこそ、私には考えがあるのだ。」

「…考え…でございますか?」

「そう、必ずや伊國やそなたを良い方向に導くことになる。安心なさい。そのために大旦那の正気を取り戻すのだから。」

清十郎の揺るぎない瞳。何を考えているのかは分からぬも、璃子の心に安堵が広がっていく。

「はい、清十郎様。」

璃子は相変わらず泣き出しそうな気持ちを抑えて返答した。しかしその涙は、先ほどとはまったく異質なものであった。

 

 

    

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