同じ室内でそんなやり取りがあったにも関わらず、喜一郎は尚二人に気付かないように背を丸めていた。体はこの世にありながら、魂だけが鬼に囚われたまま、まるで生き人形のようであった。
「いかがなさるのです?」
その様子に璃子は些か不安を覚えた。無論清十郎の事は心から信頼している。しかし今や装飾刀も扇も、茅の輪でさえ手にはないのだ。
「…これが使える。」
そう言って清十郎は手を開いて、山神の木の葉を差し出した。璃子がせめてもの可能性を信じて持たせた一枚の青葉…そこには山神の力が宿る。清十郎は脇腹から血を指に含ませると、手の甲ほどの大きさの葉の表面に、血で一文字梵字を書いた。そしてそれを喜一郎の丸めた背中にあてると、ふっと息を吹き掛けた。すると見る間に赤い血文字が黒くただれていき、遂にはあの奉納の和紙のように文字の通りの穴があいてしまった。
「…これでいい。璃子…」
清十郎は葉を懐にしまいながら後退し、璃子に喜一郎の名を呼ぶよう促した。璃子はそれを受け、今一歩前に踏み出す。
「大旦那様…大旦那様…」
そっと肩に触れ、璃子は繰り返し喜一郎を呼ぶ。
「う…」
喜一郎は詰まっていた息を吐くように呻くと、ようやっと顔を持ち上げた。未だ背中を丸めたままに辺りを見回す。
「私がお分かりになりますか?」
「…瑠璃子…わしは…」
掠れた声で振り向いた目に、白髪の青年が映る。
「お…おぉ…そなたもしや…清十郎…!」
喜一郎はよろめきながら立ち膝で清十郎に歩み寄った。驚きと歓喜と後悔に、喜一郎の表情は崩れる。勘当したとはいえ親子の血縁はあるもの、まして長きに渡り悪鬼に苦しめられてきたとあっては、懐かしい親しみも一入(ひとしお)であった。璃子の目にはこの二人のやり取りが、久し振りの親子の対面になるものと映っていた。しかし喜一郎の差し出した震える両手を清十郎は拒み、きっぱりと言い切った。
「いいえ、清十郎は死にました。」
緑の瞳が拒絶の色に光る。喜一郎を見据えた目は厳しく細められている。決して揺らぐ事のない険しい目付き。
「清十郎よ…許しておくれ、わしが愚かであった…よもやそなたが鬼などと…鬼は…真の鬼は…」
「大旦那様、公三郎様は鬼ではございませんでした。鬼が公三郎様に成り済ましておったのです。」
「そ…そうだ、そうであった…」
喜一郎はうなだれ、声を詰まらせてすすりあげた。邪気から逃れたとはいえ、その恐ろしさを改めて思い起こし、体全体を恐怖に震わせていた。
「鬼は貴方に正体を打ち明け、恐れと邪気で縛ったのでしょう。生ける姿から遠ざけ、自らの糧にしていた。」
目の前の喜一郎の怯え方に、清十郎は自らの見解の正しさを見ていた。死んだ妾の恨みすら邪気に転換し、喜一郎の恐怖を増長させては更なる糧にしていたのだ。先刻倒していなければ、伊國は完全に鬼に呑まれていたに違いない。
「そなたの言う通りだ…お、恐ろしい…」
「けれどその鬼は清十郎様が退治なさいました。どうぞご安心なさいませ…。」
璃子は震える喜一郎の肩をそっと支えた。伊國との復縁を頑なに拒絶する清十郎に代わって、今までの彼の苦心をどうしても伝えたかったのだ。伊國を始めとする三神村の何もかもを救っておきながら、人知れず去っていこうとする清十郎。誰にも知られぬなど悲しすぎる。戻らぬならせめてそれだけでも…。
「頼む、清十郎…戻って来てくれぬか…?わしはもう長くない…そなた以外に伊國家は継げぬ…!この通りだ…!」
喜一郎は璃子の言葉を受けて両手を合わせて懇願すると、そのまま突っ伏して頭を下げた。鬼が公三郎に成りすましていた今、正当な伊國の血を引く嫡男はもはや清十郎のみであった。だが血統よりも何よりも、その彼の器が喜一郎に復縁を口走らせていた。それで清十郎の心が変わるならどんなに良いか…。けれど璃子は知っている、清十郎の心は決して動きはしない。
「死ぬる者は二度と還らぬ。…清十郎は戻りません。」
「…うぅ…どうしてもか…?」
「どうしてもです。」
清十郎の目は喜一郎を見つめたまま一瞬の動揺も見せない。その目を見て、喜一郎は手を付いてひどく落胆していた。幼い頃、あれほど大きな存在として見ていた喜一郎が今やひどく小さく見えて、璃子は居た堪れない気持ちになった。それは喜一郎の意思を拒絶したままの清十郎とて同じ事。いや、むしろ拒む言葉を繰り返す清十郎の方が心を痛めているに違いない。かつて伊國に拒まれて絶縁されたものが、今になってようやく受け入れられようとしているのだ。それなのにあえて首を縦には振らぬ。清十郎は今どのような気持ちで、欲したものを自らの手で断っているのだろう。
「そう落胆なさらないで下さい。瑠璃子がこの三神村の名を取り戻しました。村は再び栄えましょう。伊國は他より養子をお取りになってください。」
「その者を跡継ぎにとな…?」
「それがいい。」
清十郎は深く頷く。これこそが清十郎が先刻口にした“考え”であったか。その若干伏せて細めた目に厳しさはなかった。ただ老いた親を気遣う息子の姿がそこにあった。
「璃子…参ろう。」
「あ、はい。」
清十郎に呼ばれ、どこへとも分からないままに璃子は返事をした。
「今暫く伊國の小間使いをお借りします。」
立ち上がり清十郎は喜一郎にそう言ったが、喜一郎はただ啜り泣きながら頷いただけであった。その姿に僅かに目を伏せ、それでも踵を返すと部屋の入口へ歩き出した。璃子は喜一郎に一礼し、慌ててその後を追う。清十郎は璃子と共に部屋から廊下に出て、そして今一度喜一郎の部屋を振り返った。正気を戻して尚、暗い部屋にうずくまる喜一郎…最後の最後まで、自分には父を落胆させる事しか出来なかった。
「さようなら。」
“父上”と口にする直前で、清十郎は音も立てずに障子を閉めた。それはあまりにも静かな今生の別れであった。