「どちらへいらっしゃるのです?」
伊國の敷地を喜一郎以外の誰の目にも見つからぬ内に出て、暫く山を歩いてから璃子は尋ねた。日が暮れて群青に染まった空は、その東の切れ端を僅かに黒く変え始めていた。翌日の晴天を思わせる明るい月明かりが、木の間から二人を照らす。眼下に見ゆる三神村の家々からは、夕餉の煙が絶えることなく立ち昇っていた。伊國の中は今どうなったろうか…本来ならば同じように夕餉の支度をしなければならない時間、母様がご立腹かもしれない。尤も、鬼の邪気から回復した喜一郎が、何か口添えしていることも考えられるが。
「…これから子の山へ。」
ややあって清十郎が呟く。その足取りは酉の山中を、鬼を封じた山神の木のもとへと辿っている。
「弟を弔ってやらねばならん。」
「公三郎様を…」
本当の公三郎様、瑠璃姫様より先に亡くなっていらしたのだから、その御歳は享年数えの九つ。急に子供遊びをなさらなくなり早くに大人におなりだったと思い込んでいた、その正体は鬼。なんとお可哀相に…墓穴や卒塔婆がなかったのは清十郎様だけでなく、ご兄弟だったのだ。
「弟の御霊も浄化してやらねばな。」
そう言って再び戻って来た酉の山で、山神の木を見上げた。その青葉は夕闇にあって尚輝かしい。悪鬼を幹の中に封じ込めている事を忘れてしまいそうになるほど、神々しく映る山神の木。あれほど強大だった邪気は、清十郎が突き立てた装飾刀に相成ってすっかりその姿を消していた。先刻のあの恐ろしさがまるで嘘のよう。あまりにも穏やかな夕暮れの酉の山。
「山神よ、その枝を一本頂戴致す。」
清十郎の静かな言葉に、木は頷くようにざわめく。清十郎は懐に忍ばせていた短刀を手にとると、差し出すように垂れ下がる枝を丁寧に切り取った。小さくとも山神の力を宿した清き枝。その枝には未だ生命力が漲っている。
「忝ない。」
恭しく頭を下げた清十郎と共に、璃子も一礼をする。山神の木はまるでその様子を微笑ましく見ているようだった。
「…さぁ急ごう。じき夜になる。鬼はなくとも夜の山は危険だ。」
「はい、清十郎様。」
二人は夕刻から足を休めることなく、続けて子の山を目指した。見送るような山神の木のざわめきがいつまでも聞こえていた。
「清十郎様は…いつ公三郎様をお見つけになったのですか?」
璃子は懸命に清十郎の後を追いながら尋ねた。黒い面の鬼が清十郎だったと知った今、彼が十年もの間山に住んでいることは明らかだった。それは清十郎が孤独に過ごしてきた年月をも物語る。誰に思い出される事もなく、ただ悪鬼と呼ばれ続けた日々…清十郎は“誤解を背負いたくない”と口にした以上に、その日々の辛酸を口にすることはなかったが、璃子はそれを思うだけで心が締め付けられるようであった。
「…今にして思えば…十四の頃であった。」
それは瑠璃姫が亡くなった年の齢。璃子は清十郎もその時に死んだものだと聞かされていたが、実際には瑠璃姫を死に追いやったと疑われ、伊國から勘当されていたのだ。
「伊國の者でなくなって…山中で行き場を探していた。せめて三方の山々の神社に行けば雨露を凌げると思ってな。その頃は神社も宮司も健在だった。だがこの身なりでは神社ですら受け入れてはくれぬ。それでとりあえず子の祠を目指した…その時にな。」
清十郎の背中が悲痛を物語る。璃子は胸元でぎゅっと拳を握り締めた。
「最初はそれこそ人骨とは思わなかった。しかし何か心に引っかかるものがあった。程なくして神社が廃れたと知って子の祠を去るときに、ふと墓に仕立てねばと思った…公三郎が私を呼んでいたのかもしれないな。」
そう言って清十郎は静かに脇に目をやり立ち止まった。その頃には辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。子の山は静まり返り、ただ僅かにひんやりとした風が吹くばかりであった。烏ももはや巣へと帰り、虫が秋を惜しむように鳴く。真実を知った今、この子の山は以前にも増して寂しく感じられる。
「ここだよ、璃子。」
清十郎は足を止めた傍らの、ちょっとした窪地を指して口にした。そこには丸みを帯びた大きめの石がせめてもの墓石として置かれていた。
「この石は清十郎様が…?」
「あぁ…かつて誰のものとも分からないほどにバラバラにされた骨のあった場所。よもや公三郎のものであったとは…。」
そう言って清十郎は目を伏せた。思い起こす異母弟の成れの果てに、ただ無念が募る。殺され、皮を剥がし取られ、かけらすら肉片の残らぬまでに食い荒らされた公三郎…いかに苦しかったことか、それと知られぬままにいかに無念であったことか…。山に一人で暮らす折、いつの頃からか常に側を飛んでいたオニヤンマ。邪気を恐れ、災いの前触れには必ず姿を消していた。あれは死してなお伊國を案ずる弟の魂であったか。
公三郎…
清十郎はただ心中で小さく名を呼ぶ。