「公三郎様…こちらにいらっしゃったのですね。」
璃子は窪地に下りて、その名も無き墓石を優しく撫でた。その手に浮かぶのは鎮魂だけでなく懺悔の思い。知らなかったこととはいえ、鬼を公三郎だと呼び続けてしまっていた。その影で幾度となく“その者は公三郎ではない”と叫び続けていただろうに。璃子にはそれが聞けなかった…どんなに辛かったろうか…!
「弟はそなたを怨んだりはしない。」
清十郎も窪地に足を踏み入れ、璃子のそんな惜念を汲み取って口にした。
「弟はまこと純粋であった。これからそれに報いてやらねばなるまいな。」
そう言うと更に墓石に歩み寄り、手に持っていた山神の木の枝をその傍らに植樹した。小さな墓石にまだ頼りない若木が揺れる。だがいずれその母体樹のように雄々しい大木になることだろう。その常緑が御霊を鎮魂し、三神村の一つの礎になる。
「公三郎様…」
璃子は小さく名を呟いて手を合わせた。許しを請うことはしなかった。それは相手が自分に対して怒りを感じていることを前提にしてする行為、公三郎はもとより誰をも怨んではいないのだ。ただそのかわりに感じていたであろう寂しさに手を合わせる秋の夕暮れ。
「さぁ、璃子は帰りなさい。」
ややあって清十郎は穏やかに帰宅を促した。山の何処からか梟が静かに鳴き、辺りは月の明かりがより一層映える夜になっていた。
「ここを下れば子の山に接する三神村のはずれに出る。そこまで送ろう。」
清十郎は窪地を上がり、南の方向を指差した。彼は早くも山を下りる体勢であった。子の山から見て南西に位置する伊國家を目の端には入れても、決してその方向を指し示さない。その様子には、どこか頑なに伊國家へ近寄るまいとも感じられる。
「清十郎様は、これからいかがなさるのです?」
璃子は公三郎の墓石の傍らで立ち上がり尋ねた。清十郎が戻らないことは知っていた、けれどその行く末は未だ口にしないままであった。
「私はこのまま山に。山神と共に生きる。」
「村へは…?」
「帰るまい。今更死んだと言われた身で俗世には生きられぬ。その上この風貌とあっては異形にほかならない。…世間は受け入れぬよ。」
璃子は言葉を返さぬまま、ただそう口にした清十郎を見つめていた。月明かりが緑の瞳を輝かせ、風が白い短髪を撫でる。そしてその顔には悲哀が滲む。人間とはかくも哀しきものかな…鬼を恐れながら、その心の内に鬼を宿している。そしてそれを無くしては生きられない。璃子の中にも無論いる…清十郎と公三郎を奪った鬼を未だ憎んでいる。それは愛情故に宿る鬼。愛の証にも鬼が宿るなら、人とはかくも鬼と紙一重の存在なのだろう。
「…璃子、私の頼みを聞いてくれるか?」
「はい…はい!」
思いも寄らない清十郎の言葉に思わず璃子は返事を重ねた。三神村のはずれへ続く獣道のその途中で、秋の虫の音に清十郎の声が混じる。
「一つには弟の…公三郎の真実を村に伝えてほしい。尤も大旦那が口にするかもしれないが…。それから卒塔婆を一本、公三郎のためにこしらえてやってくれ。本当の墓の在りかを教えずとも、諡(おくりな)が必要だ。」
「分かりました、清十郎様。ですが貴方のことは…?」
「私のことはいい。清十郎は死んだままにして、ただ黒い面の鬼への誤解を解いてくれ。そして二度と現れぬと。」
「…はい。」
璃子は胸を締め付けられる思いを何とか飲み込んで、出来得るかぎりの落ち着いた声で返事をした。もう何度も清十郎に“なんて顔だ”と釘を刺された。ここで璃子が寂しがることを清十郎は望みはしない。
「それともう一つ…」
村の際に近づいてか、清十郎は歩みを止めて璃子に向き直った。
「じき大旦那がいずこかから養子を迎えよう。その子が三つになるまで、璃子が世話をしてやってくれ。」
三つ子の魂百まで…それで伊國は蘇る。
「はい、必ず。清十郎様。」
璃子は清十郎の頼みを力強く請け負った。喜一郎の部屋で口にした“考え”とは、ここまでの言葉こそが清十郎の真意。おそらく璃子が清十郎にまみえるのも、これが最後になろう。清十郎の緑の瞳は、それを思わせるように璃子を見つめる。どれほど強く望んでも、成就しない事は山のようにあるものだ。清十郎が伊國に戻らずとも、また山の中で幾度か会えるのなら、璃子にはそれだけでも十分な事であった。しかし清十郎は、自らの事で璃子の人生を縛る事を望みはしない。真に異父妹を思う形が、今この場においては“別れ”だったのだ。璃子にも清十郎のそんな気持ちが伝わってくる…それを裏付ける緑の瞳。ただ優しく、穏やかに…清十郎が自らの兄だということが強く心に刻まれる。
「…私は随分不孝者であった。とりわけそなたら弟妹(ていまい)に対して…」
清十郎は不意に目線を璃子から逸らし、自嘲的な笑みを僅かに浮かべて呟いた。
「そんな…そのようなことはございません!ずっと…守ってきて下さったのではありませぬか!」
しかし清十郎は小さく首を振る。
「不孝者でなければ、こんなに後悔はしない。璃子、そなたには随分助けられた。そなたの方が長子にふさわしかったのかもしれないな。」
「清十郎様…」
「さぁ…そなたの母君が心配なさる。」
清十郎はそっと璃子の背を押した。璃子はそれに一、二歩踏み出したがすぐに清十郎へと振り返った。しかしそれに次ぐ言葉は見つからなかった。“ありがとう”でも“さようなら”でもない気持ちで満たされていた。どんな言葉を口にしようと…それを何度繰り返そうと、心に感じる不足感は決して拭えない。
「行きなさい。」
「…はい…」
璃子は清十郎に再び促されて、ようやっと村へ向けて歩きだし始めた。足が止まることを恐れて、一度も振り向きはしなかった。璃子の視界が涙で揺れる。今はただ生涯で一度も清十郎を“兄上”と呼ことの出来なかった蟠りが心を支配していた。