「るり子姉さまー!」

幼子独特の甲高い声が璃子を呼ぶ。今年数えの四つになる伊國家の跡継ぎが、パタパタと小さな足音を立てて璃子に駆け寄った。相変わらず庭の落ち葉掃きに勤しむ璃子の、その腰元に頭が届くくらいの小さな子。黒く繊細な髪の毛も、やっとのことで一つに結べるようになった。ふっくらとした頬が愛らしく、切れ長の瞳の割に大きな黒目が、更にその可愛らしさに拍車をかけていた。その身に纏う淡い紫のべべは、璃子の目に映るたびに懐かしさを呼び覚まさせた。このべべを同じ目線で見ていたのは、もう何年前になろうか。

穏やかな日和には、同じように穏やかな記憶ばかりが甦ってくるもの。秋の高い青空は、以前鬼に怯えていた村の姿をすっかり洗い流すようによく映えていた。無常ともいえるほどに何事もなく過ぎていったここ数年の平和な日々は、どこか璃子の胸に虚しさの影を落としたけれど、その時の流れが伊國にはこの上なく必要なものであった。

 

 

伊國家にはあれからすぐに養子が迎え入れられた。生まれたばかりの乳飲み子だったその子も、乳母のもとで大切に育てられ、今ではすっかり璃子の後を付いて回っていた。

鬼の災いがぱたりと止んでから、もう間もなく三年になる。結婚適齢期に鬼の一件に居合わせ、いずれ公三郎の妾になるものだと言われていたことも今では叶わぬものになり、璃子はすっかり婚期を逃したものだと覚悟をしていた。しかし養子にもらった子の引き替えに、その故郷に嫁ぐこととなり、来月の大安を待って三神村を離れることになっていた。相手は伊國の分家にあたる家系で、幾分離れた村を治める伊浪家の当主。第二妻…つまり妾になるのだ。本来ならばすぐにでも嫁ぐところを、清十郎の最後の頼みを聞いた喜一郎の強い願いで三年の猶予をもらっていた。だがそれももう残り一月…三神村を囲う山々を見られなくなるのがひどく寂しい。

「はい、若様。いかがなさいました?」

璃子は駆け寄って来た幼子を屈み込んで迎えた。若干転びそうになりながらも近づいてくるあどけない顔…それが少しだけムッとした表情を浮かべる。

「わたしのことは“清二郎”と呼んでくださいといったではないですか、るり子姉さま。」

「はい、そうでしたね。申し訳ありません、清二郎様。」

璃子は困ったような笑みを伴って訂正する。喜一郎を“大旦那”と呼ぶように、内輪で呼ぶときには“旦那”や“若”と呼ぶことが通例であったが、この小さな伊國の跡取りは、事あるごとに璃子に“名で呼べ”と釘を刺していた。物心ついた頃にその名の由来が勇敢な義兄にあるのだと聞いてから、すっかり自分の名に心酔してしまっていたためだった。

清二郎…数字違いのよく似た名、命名したのは喜一郎。養子を亡くした我が子の生まれ変わりと見ていた節も、確かになかったわけではないけれど、ただ“清”の字と共に後世にも引き継いでもらいたかったのだ。心に焼き付いて消えぬ、あの方の志を。璃子はこの子の名前が“清二郎”だと決まった時、暫くの間呼び違えることが多々あった。その度に母は「誰の名と呼び違えておるのです、失礼ですよ」と耳打ちしたが、その言葉にただ璃子と喜一郎だけが同じ表情をするのであった。決して忘れる事の出来ないお方…慕情は途絶えることはない。

 

 

璃子がその名の由来主に会うことは、あれから一度としてなかった。清十郎の生きる証を幾度か山中で目にすることはあったが、ついにその姿を見ることはなかった。おそらくは地図から消えていたために、所在地の分からなくなった古い山神社に住んでいるのだろう。それでも璃子は夜に雨が降るたびに、三方の山々を見上げていた。“山神と共に生きる”と言ったまま、あの方は今も独りで山の中。今はどのような思いで、この三神村を見下ろしていることだろう。当時はあまり事実を受け入れようとしなかった村人たちも、すっかり成りを潜めた鬼や災いに、三年経ってようやっと自らの見解違いを認識し始めている。あの時“これ以上背負いたくない”といった誤解の荷を、少しは下ろすことができただろうか。今はただ清十郎も安穏な日々を送っていることを望む。

「公三郎兄さまのお墓に参りましょう。彼岸花が咲いたらというお約束でしたでしょう?ごらんくださいな、庭の隅で咲いてございます。」

清二郎は璃子を急かすようにしながら、庭の一角を指し示した。そこには炎のように鮮やかな朱が風に揺れている。

「まあ…本当に。それでは約束を果たさなければなりませんね。」

璃子が柔らかく微笑んで承諾すると、清二郎は満面の笑みを浮かべて大きく返事をした。清二郎にとって公三郎の本当の墓を知っていることは、とても誇らしいことであった。清十郎はその場所を教える必要はないという風に口にしていたが、璃子が伊浪にいずれ嫁ぎ、老い先短い喜一郎の亡き後を懸念して、清二郎にだけは打ち明けていたのだ。所謂“秘密の場所”というものを得て、まだ幼い跡継ぎはただ喜ぶばかりであった。だがそれもいずれの時にか、真実を受け止める日が必ず来よう。それまでは公三郎を忘れずにいれば、一先ずはそれでいい。

 

「何の花をお持ちしましょうか?」

竹箒を離れの土間にしまいに行く璃子の後を追いながら、清二郎は辺りを見回した。とはいえ菊月の中旬、今は月にすすきの美しい折、墓に供える花はいずれもまだ咲ききってはいない。

「そうでございますね…」

璃子は考え込むように呟いたが、その心内ではすでに決まっていた。

「戌亥の桔梗の気の早いものが咲いているかもしれません。行く道すがら、立ち寄って参りましょう。」

「はい、るり子姉さま。」

清二郎は待ち遠しいと言わんばかりの声で返事をした。璃子がそんな清二郎に“彼岸花が咲いたら”と約束したのは、実のところ桔梗の咲くのを待つためであった。伊國の墓には桔梗が似合う。そして何より璃子にとって清十郎を象徴する花でもあったのだ。あの時桔梗を幾輪か摘んで、手桶にそっと入れた姿を今も鮮明に覚えている。

璃子一人ならば今暫く桔梗の咲くのを待つところだが、しきりに行きたがる清二郎をこれ以上待たせるのは至難なことであった。春の彼岸に璃子が一人で行ったことを知って、一晩泣き明かした清二郎に、秋には必ず連れていくと約束して何とか落ち着けたのである。それでも逆に気味悪がって行きたがらないよりかはずっといい。これならばいつか真実を知っても、それを受け入れられよう。

 

 

「さ、参りましょうか。」

璃子は竹箒を返し、その傍らにあった手桶を代わりに持つと、振り返って清二郎に微笑みかけた。

「はい!るり子姉さま!」

清二郎はこれ以上ないほど元気よく、璃子の手を自らの腕をいっぱいに伸ばして掴むと、わざわざ歩調を合わせている璃子を遅いとでもいうように引っ張って進んだ。その無邪気さは、どこか在りし日の公三郎を思わせる。璃子は思わず誰もいるはずのない後方を振り返った。幼い日、こうして公三郎に引っ張られて歩く璃子の後ろには、いつも清十郎が静かに控えていた。八つ歳の離れていた清十郎が二人に合わせてはしゃぐことは一度もなかったが、いつでも寡黙な優しい眼差しを向けていてくれた。いくつになっても…瞳の色が変わっても、それは少しも変わらなかった。返す返す清十郎に跡取りの器を見る…そして三年経った今なお残念でならない。

 

 

清十郎様、貴方が今もご存命であることを小さな清二郎様がお知りになったら、どんなにか私を急かすか分かりませんわ。

 

 

そう心で呟くと、人知れず自嘲的に小さく微笑んだ。それは清十郎に会いに行く、非常に都合のいい理由ではあったが、同時に決して裏切り得ぬ彼との約束でもある。“清十郎は死んだ”…それを貫き通すことが、親愛なる清十郎への誠意の証であった。

 

    

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