璃子と清二郎が三神村の戌亥までたどり着くと、予想通りそこには点々と僅かに桔梗が咲いていた。今年は例年に比べ、若干冷夏であった。そのせいで少しばかり桔梗の目覚めが狂ったのだろう。いつもなら咲かない時期に見る桔梗は、その一本一本がより美しく、摘み取ってしまうことが些か躊躇われる。

「何やらつむのが可哀相な気がいたしますね。」

清二郎も感じていた率直な気持ちを口にする。

「さようでございますね。では手を合わせから頂くことに致しましょう。」

そう言って璃子は目の前の一輪の桔梗に手を合わせた。清二郎も同じように瞳を閉じて合掌する。風が蕾の桔梗畑を揺らし、返事を返すようにその音を立てる。

「山神様、有り難く頂戴致します。」

「ちょうだいいたします。」

璃子は清二郎に目を合わせて微笑むと、その美しい桔梗を丁寧に摘み取った。地から引き離しても尚息づくようにと、心を込めて手をかける。桔梗のざわめきはどこかくすぐったくてクスクスと笑う、柔らかな声のようにも聞こえた。

 

 

「花はもう十分でございますね。」

十本ほど摘んだところで清二郎が立ち上がる。時期が早いとはいえ、まだそこここに開花した桔梗は見受けられる。それでも清二郎は手を止めた。“花はもう十分”…桔梗畑はかつて清十郎が口にしたのと同じ言葉を、清二郎にも言わせていた。

「あまり多く摘んでは、公三郎兄さまも良い顔をなさらないでしょう?」

「さようで…さようでございますね。」

璃子は呆気にとられながら、いつの間にか成長していた清二郎を見つめた。血が繋がっていなくとも、清十郎の意志は確かに受け継がれていた。公三郎のように無邪気でありながら、清十郎のような穏やかさを併せ持つ…伊浪の末子が伊國に来たのも、山神よ、そなたらの思し召しであろうか。

「今度は桔梗が満開になるのを気長に待ちます。」

途端に清二郎は悪戯に微笑む。嫁ぐ前に桔梗が咲きそろった頃を見計らって来ようとしていた璃子の魂胆は、いとも簡単に清二郎に見抜かれていたのだった。

「はい、清二郎様。」

璃子は目に涙をうっすらと浮かばせながら頷いた。山神らも、そんな清二郎にきっと会いたがることだろう。

 

 

 

 

璃子は携えてきた手桶に似つかわしくないほど僅かしか入っていない桔梗を揺らして、清二郎とともに山中を尚も歩いた。再び穏やかな日々を取り戻した三神村の三方の山々は、以前あれほど“鬼がいる”と恐れられていたことが、まるで嘘だったかのように思わせる。山々にはもうじき新たに神社が建立されるのだと聞いた。何回目かの里帰りには、それを見ることになろう。

「るり子姉さま、山神さまの木ですよ!」

ふと物思いに耽っていた璃子の手をぐいぐいと引いて、清二郎が前方を指す。茅の輪が深く食い込むほどに成長した木は、あの時より更に雄々しくなった。後から知った…それは榊の木、葉が一般的な榊より大きいのは山神の力があっての事だろう。その幹の内には、未だ鬼の面とそれを貫く装飾刀を宿す。あの時のおぞましい断末魔、溶け出していった邪気、何もかもが鮮明に頭に残ってしまっている。だが二度と出てくることはできまい。山神の木は鬼の墓標…勿体ないくらいの代物だが、鬼もまた浮かばれぬ故の魂なら、これも一つの鎮魂になろう。

「清二郎様、桔梗を幾本か拝借致しますね。」

「かまいませんよ。」

「忝のうございます。」

璃子は手桶から四本桔梗を取り出すと、それを山神の木の根本にそっと置いた。三方の山神と、そして鬼への手向けの花。無論未だに鬼は許しえぬ。だがそんな鬼にも鎮魂は必要であろう。

 

今はただ山神に抱かれて永久(とこしえ)に眠れ。

 

 

    

 小説TOP(オニヤンマ)