『璃子や、さぁ…こちらにいらっしゃいな。』

『はい、おかあさま。』

『このお方が貴女が生涯お世話致す伊國のお世継ぎですよ。申し遅れました、若様。こちらが娘の璃子でございます。年端もいかぬ故、暫くは十分なお世話を致しかねます事、お詫び申し上げます。』

『構わぬ。もとより承知だ。公三郎とも良い遊び相手になろう。』

『有難きお言葉にございます。璃子、貴女もご挨拶申し上げなさい。このお方が伊國家の…この村の次期ご当主、御名は………』

 

 

 璃子は再び見ていた幼き日の夢から瞳を開けた。数日前に見た夢よりも、更に遡る瑠璃姫の嫡男に会った日の記憶。なんとも鮮明な夢であった。当時数えでやっと三つになるかならないかの齢…普段思い起こせることでさえ不明瞭な部分が多いにもかかわらず。

 璃子は庭の雀がやっと鳴きだした早朝に布団から静かに起き上がった。傍らの母はまだ眠っている。やや卯の山際が紅くなり始めているのが障子越しに見て取れる…日の出は随分遅くなった。

 

瑠璃姫様…有難うございます。

 

その僅かな来光に、璃子は手を合わせて呟いた。幼き日の記憶…呼び覚ましてくださったのは貴女様に間違いないのでしょう。そう確信して璃子は柔和に微笑むと、随分珍しく母よりも早く起床し着替え始めた。

 

 

 

 

 

 「若様には十分に感謝申し上げねばなりませんよ。」

璃子の外出制限を解いて、母は念入りに璃子に言い聞かせた。母はもっと長く門限を制限しているつもりでいたが、公三郎の懇願にその決意を改めねばならなかったのだ。

「承知いたしております、母様。またその節は大変申し訳なかったと、重々反省いたしております。」

「あぁ…それならば危ない真似を致すのはこれきりにして頂戴な。ただでさえ鬼の噂絶えぬ山際にいるのですから。」

「はい…母様。」

璃子は母の言うところの°Sを弁解したくてたまらない気持ちを何とか抑え込んで返事をした。その鬼の真のところは悪鬼などではなく、災いを祓う清浄なお方なのですよと、そう言葉にする寸前で、改めて℃條ではないのだと留まった。セイにはあれから幾日も会っていない…会って確かめたい事がある。セイ自身の体の具合と、そして…

 

 「あぁ…ここにいたのかい、璃子。」

突然顔を出した公三郎に母子は慌ててお辞儀をした。いつものように穏やかな公三郎は、その手に持っていた書状を璃子に差し出した。表に&納と書かれた少し重みのあるそれを璃子は歩み寄って受け取った。

「これは…?」

「その書状を子の祠に届けよとの父上からのお達しだ。じき催される秋祭りへの奉納金だよ。今年は奉納するのが少し遅れてしまったが、いつものように決して開封せずに届けて欲しい。」

「はい、必ず仰せの通りに、若様。」

璃子はそう返事をして心底嬉しそうに微笑んだ。来年の種籾を同封した金一封を預けられるという公三郎からの信頼と、違和感なくセイに会いにいける喜びに。

「ふふ…いつになく嬉しそうだね、璃子。さぁ、行ってきなさい。門限が解かれたとはいえ、遅くなっては母君が心配なさる。」

「お心遣い、痛み入ります。」

「では確かに承りました。行ってまいります。」

璃子は軽やかな足取りで伊國の敷地から外へ出た。門限のために家にずっと留まるのも苦痛だったが、何よりもセイの元へ行けなかったことに心を痛めていた。璃子の中の彼の記憶は、卯の山でひどく辛そうな姿で止まっている。血の跡を残して消した姿…どうしただろうかと思わない日はなかった。それがやっと解放され会いにいける…あの夢を確かめる事ができる。

璃子はいつになくはしゃいでいた。軽やかな足取りで山へと向かう。もしこの時、以前のように山を恐れ警戒していたならば、璃子も僅かに感じられる重々しい雰囲気に気がついただろうか。喜びは時に人を盲目へと陥れる。今この時にあって、それは璃子の目を閉ざしてしまう事になっていた。山へと向かうその背後にねっとりとした不快なものが、敷地を出た直後から璃子の後をつけて来ていた事に気付かないほどに。

 

 

 

 

 璃子は今は廃れた酉の山の山道を、子の山に向かって歩いていた。村の中の道ではなくわざわざ山の中の道を選び、いつもの歩く速度よりも幾分早く歩を進めていく。揺れる木漏れ日が心地よく、何もかもが背を押しているとすら感じられる。璃子は少し息を切らせながら辺りを見渡していた。このままあの方を探しに行けたらどんなに良いか…せめて行く道すがらでお会いできないものか。今はただお会いしたい…一刻も早く、お会いしなければ。

「セイ殿?」

璃子は不意に背後に独特の気配を感じ取って立ち止まり、振り返った。僅かに人外ともおぼゆる気配…セイのものもそうであったのだ。人でありながら、決して人の纏うことの出来ない雰囲気を併せ持つ。以前はそれを恐怖が探知していた。しかし今となっては、あの懐かしい親しみがセイの気配を知らせていた。あの方が既に近くにお出でなのだとしたら…あぁ、これ以上のことはない。璃子は進行方向を変更した足を、僅かに動かそうとした。だが…

「…違う…」

璃子は眉間にしわを寄せ、そう口にしながら≠オまったと心で呟いた。脈が途端に激しく打ち始める。同じく人外なこの気配…これはセイとは違う禍々しいもの。もう二度と遭遇したくなかった不快な膜。いつものように突如として現れるのではなく、いやらしいほどに静かに近寄ってくる。今は一定の距離…しかし璃子が一歩退くと、ズズッと重みのあるものの地を這いずる音が聞こえてくる。一体いつから自分の後に潜んでいたのか…セイに会えるかもしれないことにうかれ、周りが見えていなかった。せっかくあの方が*スを狙われているとご忠告くださったのに…。

「…けれど…まだ幸いなるかな…」

今までは猛烈な速さで近づいてきては否応なしに飲み込まれていたけれど、今度ばかりはじりじりと少しずつ迫ってくる。激しい鼓動に体まで震えてきそうな璃子の頬を、冷や汗が一筋伝う。以前とは異なり、体はまだ十分動く…しかし姿が見えない上に、その距離は少しずつ縮まってきている事を恐怖に感じる事に変わりはない。この張り詰めた空気をいかにして看破するべきか…少しでも隙を見せれば飲み込まれそうな予感は耐えることがない。

 

 

 璃子はぐっと覚悟を決めると、素早く踵を返して脱兎の如く走り出した。同時にザザザザッと、まるで大蛇が這いずるような音が背後で響く。璃子は木の間を不規則にすり抜け、追ってくるモノを撹乱しようと試みた。しかしモノは璃子よりも器用に木の間をすり抜けて、どんどんと距離を縮めていく。その距離はもはや拳いくつ分とない。絶えず地を蹴り上げて走る璃子の足を、どの機で掴もうかとしているのかが感じられる。目に見えぬ大蛇が牙を剥いて、今にも噛み付こうとしているかのように。

 

もう…もう駄目だわ…

 

璃子はもはや捕まる覚悟で走っていた。心中でセイが来てくれることを望みながら、一方で≠サうそうは来ないといった言葉が繰り返される。全ては私のせい…命の危険を軽んじた事も、わざわざ酉の山道を選んだことも。

 

あぁ…ごめんなさい、母様…!!

 

 

    

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