璃子はふと思い立って、あの瑠璃姫の嫡男の名前を思い出そうとしていた。それは鎌鼬の一件で門限が厳しくなり、おいそれと山を歩けなくなったことへの気晴らしのようなものだった。門限が短くなっても、母の言いつける用事の数は変わらなかったため、どうしても伊國から外へ出る時間が持てなかった。母の思惑通りか、それは実質外出禁止を受けていることとさほど変わりはしない。いくら伊國の敷地が広いといえど、一日中を過ごすにはあまりに狭すぎる。多感な時期にあって数日間も外出できずにいるのは、大変に歯痒く、勿体無く感じること。それならば篭っている時にしかできない事をやり遂げようと、その結果が嫡男の名探しだったのだ。尤もその一方で嫡男の名を思い出す必要性に駆られる心があることには、未だ気がつかないままだったのだけれど。

 

 

 璃子は物置と化している北向きの部屋の押入れを探った。そこには所謂骨董品と呼ばれる類の巻物やら壺の箱やら、埃臭い物品が隙間無く積まれている。一度この中身を掘り出せば、二度と元のようには納められないだろう。璃子は慎重に押入れの中段にある、平たい箱を静かに引っ張り出した。それと同時に正面から見えない位置で物が落ちたのか、小さく奥の方でコトリと音がする。璃子は不安に思って暗がりを覗いてはみたけれど、物置の中は暗く視界が通らず、それ以上何一つ動きはしなかった。

小さな溜め息と共に視線を暗がりから手元へと戻す。璃子が手にしたその箱は上等な桐の質素なもので、この埃臭い押入れにあったにしても、その立派さを少しも失っていなかった。指で撫でるとザラリとした感触と共に、その筋が出来上がる。それを見て璃子はふっと息を吹きかけた。埃が大量に空を舞う。

「確かこの中のはず…」

遅子は自らに確かめるように呟いて、桐の蓋を静かに開けた。その中には綺麗に折りたたまれた紙が幾枚も入っている。璃子は一度顔を上げて周りを確かめると、再び箱の中に視線を落とし、一枚そっと取り出した。それは生前瑠璃姫が書き残していた独自の家系図。瑠璃姫つきの小間使いであった母と共に、小さい頃に見た覚えがあった。伊國家のごく最近の家系図では早世した子の名前を書いて残しなどしない。歴代の家系図も、燃やすか倉にしまわれて見ることは叶わない。けれど瑠璃姫が残した家系図であれば、よもや自分の子の名を消す事はあるまい…そう考えてのことだった。

 

 

 「瑠璃姫様…瑠璃姫様…あった。」

達筆な文字の中から辛うじて文字を読み取る。瑠璃姫の家系を中心に書かれたその図には、瑠璃姫との婚姻関係を示す位置に「伊國喜一郎」の名前がある。探すはその間の子…

「なんと…」

璃子は我が目を疑った。嫡男の名を記した場所…そこが黒く塗りつぶされている、他のどの文字よりも濃い墨で。まるで何人も見ることを許さぬように、完全に隠された嫡男の名。このようなこと有り得ぬ…!この家系図自体存じている者はほとんどいないはずなのに。

「一体誰が…」

璃子は微かに震える指先で名を塗りつぶした墨に触れた。どこか禍々しさすら感じる。村を襲う災いや、山で包まれた不快な膜にも似た雰囲気…もしや鬼の仕業?セイ殿は確かにご自身のほかに真なる鬼がいると仰った。けれど死んだ子の名を鬼が消して何になろう?

「鬼が名前を封じておる…?」

さもあらば失われた名はこれで二つ目。一つは嫡男の名、そしてもう一つはこの村の名。いつしか誰ともなく口にしなくなっていった。私もいつの間にか忘れてしまっていた…このままの状態が続いたとすれば、最初から真の名がなかったとも捉えかねない。思い出さなくては…村の名、嫡男の名。もはやそうすることが、単なる自己満足には留まらないように感じられてならない。伊國の倉に行けば何かしらの記述があろうか。しかし母様が倉に入ることをお許しになるとは思えない。よしんば若様のお許しで入れたとしても、その後の言い訳をうまくできようはずもない。何か…必ず名を残すものが、他に無いものか…

 璃子が巡らすそんな思考の中に、所々セイの姿がよぎる。閉じた瞳の瞼の裏に、はっきりと浮かぶ精悍な青年。つっけんどんに早生の栗のある里山を指し示した姿、災いを取り込むように舞う姿、鎌鼬によって負傷した姿、その素顔。そして彼の纏う黒い面、短い白髪、装飾刀、扇、手甲…桔梗…

「…そうだ…」

璃子は何かを思いついて顔を上げると、不可解な家系図を再び桐の箱にしまい、元のようにそっと戻した。黒く塗りつぶされたその真意も気になるが、分からぬ事にいつまでも縛られていてはならない…突き止めねば。そして音を立てぬように襖を閉じると、思い立ったその場所へ、素早く小走りで向かっていった。

 

 

 

 璃子はひっそりとした伊國の敷地の隅に来た。そこは以前桔梗を供えた伊國の墓場。秋の風に卒塔婆(そとば)がカタカタと乾いた音を響かせる。桔梗は既に枯れ、茶色く変色した花弁が散っては風に飛ばされていた。

「ここならば…」

璃子は静かに墓前に手を合わせると、数歩踏み出して墓石の後ろの卒塔婆から名前を探し始めた。先代・先々代、さらに前のご当主…そしてその奥方…歴代の卒塔婆が幾本も並ぶ。流石に数十年前のものとあっては、風雨に晒され文字の解読も容易ではない。

「あった…瑠璃姫様…」

璃子はやや新しい卒塔婆の中から、瑠璃姫の(おくりな)を探し当てた。その文字はまだはっきりと読み取れる。同時期にお亡くなりになったご嫡男の卒塔婆も、この様子ならば見分けられよう。しかし…その卒塔婆は何処に?

 璃子は横に並ぶ卒塔婆の中に、瑠璃姫のものと同等の古さのものがないことに同時に気が付いた。確か瑠璃姫と嫡男の後には未だ亡くなったものはいない。実質この瑠璃姫の卒塔婆が一番新しいということになる。しかしいくら見渡せど、他の卒塔婆はいずれも瑠璃姫のものより格段に古い。いくら母子といえど、一本の卒塔婆に(おくりな)が二つ書かれていることなど決してない。流産の赤子でさえ(おくりな)を与えられて卒塔婆に記される。喜一郎の八つ違いの弟がそうだったように。

「これはおかしいわ…」

璃子は眉間にしわを寄せて、自らに聞こえる程度に呟いた。塗りつぶされた家系図、見つからぬ卒塔婆。やはり何者かが隠そうとしている…村の名と嫡男を。一体何故…

 

 

    

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