『璃子、貴女がこの度よりお仕え申し上げる公三郎様ですよ。ご挨拶なさいな。』
『母様?……様はいかがなさいましたの?』
『…その方はお亡くなりになったのです。』
『けれど私、……様にお会いしとうございます。』
『これ璃子や、何を申すのです!公三郎様、大変なご無礼を…』
『構わぬ。物心つかぬうちから兄上に仕えてきたのだ。私に仕えるようになればそれも自ずと分かるようになろう。璃子。私がお前の新しい主人になる。よろしく頼むよ。』
『……はい…公三郎様。』
それは遠い記憶。璃子が数えの五つの頃、瑠璃姫とその嫡男が亡くなり、齢十の公三郎が代わって跡取りになった時のもの。随分久し振りに夢を見た。しかしなんと曖昧な…瑠璃姫のご嫡男のお名前はなんと仰ったか…。
昨晩、セイに促されてどうにかこうにか帰り着いた璃子は、待っていた母にこっぴどく叱られた。災いが起きたという時に雨戸の言いつけを放置したばかりか、伊國の敷地を飛び出すなど言語道断、もはや外に出る事すら許さぬと言い切った。しかしそれではセイ殿の元へ…と言える訳もない。どんなに璃子が陳謝しても、母は決して彼女の外出を許さなかった。
「気持ちは分かるが、許してやってはくれぬか?」
そんな母子のやり取りの場に公三郎が現れる。
「しかし若様…」
「あの混乱の中、よくぞ無事に帰ってきたものではないか。それで十分、償われてはいないかね?」
「お言葉ですが、若様。娘は私の…いえ、若様のお言いつけを守らず、伊國の敷地を飛び出したのでございます。災いの際には御家に留まり、身を守るようにとした大旦那様や若様のお心遣いに反したのです。御覧なさいませ、腕に怪我まで…。どれほど…どれほど心配したことか…」
母の声は涙にくぐもり、そして幾ばくか震えていた。璃子は傷だらけのセイを前にした時と同様に、胸が締め付けられていた。母の言葉に二度も背き、我が事ばかりに囚われていたことにひどく罪悪感が募る。
「母君のお気持ちは察するが、璃子が外に出られないとなると私の遣いも滞るものでね。門限を厳しくすると言う事ではどうだね?ほら、璃子も十分反省しておる。」
母は公三郎に言われ、振り返って娘を見遣った。その目に頭を若干垂れたまま、目を上げられないでいる璃子の姿が映る。か弱い腕からは未だじわじわと出血が止まらない。大きな瞳には涙が零れんばかりに溜まっていた。
「……そう…そう若様が仰るなら…」
母は大分渋々しながらも璃子の門限付きの外出を容認し、そして優しく抱き寄せた。璃子はその母の暖かい優しさに感謝を抱きつつも、心の一方ではセイの事を考えていた。私には心配してくださる母様がいらっしゃる…私の怪我にお心を痛めてくださっている。けれど…セイ殿には?璃子は自らの切れた腕を治療しながら、それよりももっとひどい手傷を負っていたセイのことで頭がいっぱいだった。あの見慣れぬ怪我に心配が募る。暗い新月の卯の山で、あれから一人で過ごしたのだろうか…とにかくただセイ殿がどうかご無事でありますようにと璃子は請うばかりだった。
そんなやり取りの夜が明けて、未だ曖昧な夢に釈然としないながらも人知れず璃子は東の卯の山を目指した。僅かに朝靄のかかる早朝は大分肌寒くなってきた。村の家々は災いがあった事で戸が固く閉ざされて、辺りは耳鳴りがするほどに静まり返っていた。昨晩の騒ぎがまるで嘘のように感じられる。しかし斬られた家の戸、自らの右腕、鮮明に残るセイの顔…何もかもが現実であった事を示唆している。
璃子はまた懐に昨晩の夕餉の残りで握った白むすびを入れていた。あの辛そうな表情のセイが頭から離れない。あの方は災いが起きるたびにあのように山を下りては、その根源を村から取り除いてくださっていたのだ。だから災いと共に姿を現していた。私たちが愚かにもそれを″ミいをもたらしていると、勝手に思い込んでいたのだ。セイ殿はその誤解を進んで解こうとなさらないけれど、これ以上は背負いたくないと仰った。それならばせめて私の出来うる限り、その荷を下ろして差し上げたい。
「セイ殿。」
璃子は逸る気持ちを抑えて、辺りに響かない程度の声で名を呼んだ。村の者がセイの姿を見ようものなら、彼らは躊躇いことなくセイを殺しかねない。それでなくとも璃子がセイに会っている場を見られれば、母様…伊國家…引いては鬼山村の存続に関わる。セイの言ったとおり、≠ワだ時期ではないのだ。
「セイ殿?」
璃子は返事はおろか気配さえもないことを不審に思い、足元の枝に気を配りながらも昨晩の木の根元を覗き込んだ。しかしそこにセイはいなかった。木の根元に僅かな血の跡を残したまま、装飾刀も扇も面も、何もかもを伴って姿を消していた。
「そんな…一体いずこへ…」
璃子は辺りを見回し呟いた。しかし辺りの朝靄がやや消えてきていても、セイの姿を見つけることは出来なかった。
あれは単なる怪我などではない…邪気を宿したおぞましい傷跡。おそらくセイの体にかかっている負担はおよそ考え付くものではない。璃子には数刻前にあの木の根元から、セイがふらつきながらも立ち上がる様子が見えているような気がしていた。そしてその予感は決して遠く外れているものではない。あの状態から動けるほどに体が回復したのなら、それに越したことはないのだけれど。