卯の山は物音一つせず、虫の微かな声が響くだけであった。璃子は誰に迷惑がかかるわけでもないのに、慎重に静かに歩を進めた。静かな山に些か息の上がった璃子の呼吸だけがやけに響く。先程までの村の喧騒は収まったのか、それともそれの届かぬ場所まで来たのか、それは分からない。新月の山は目が見えなくなったのかと思ってしまうほどに暗い。足元を掬われ、突然目の前に現れる木々に歩みを止められながらも璃子は探し回った。
「セイ殿…」
矢に射抜かれはしなかったろうか…鎌鼬に切られはしなかったろうか。あの方に何かあったら心が締め付けられるほどに痛む。璃子は不安な面持ちで辺りを見遣った。
「あ…!」
不意に璃子は闇に浮かぶ白髪を見つけ、安堵と衝撃の混ざる声を上げた。大きな木の根元、探していたその人物がうつ伏せに倒れているのが目に入った。セイは微動だにしない。
「セイ殿!」
璃子は慌てて木の陰から飛び出した。同時に足を木の根に取られはしたが、ふらつきながらもセイの元へ駆け寄った。彼は近くに扇を取り落とし、右手には未だ装飾刀を握ったまま倒れていた。しかしその右手にしても、もはや力が入っていないことは一目瞭然であった。
「しっかり…しっかりなさいまし!セイ殿!」
璃子は以前セイが自分にそうしたように、背に手を置いて声をかけた。セイは小さく「う…」とうめき声を上げたが、それでも指先一つ動かすには至らなかった。
「セイ殿…お気を確かに…」
璃子はひどく辛そうなセイの腕を自らの肩にかけ、ゆっくりと彼の体を抱き起こした。その刹那に鬼の面の紐が緩み、カランと音を立ててセイの顔から面が落ちる。璃子は落ちた面を見つめ、思わず動きを止めた。これより上にセイの体を起こせば、彼の素顔が見える。確かにそのお顔を拝見したいと思ってはいたが、これまでのセイの頑なに面を外さなかった態度を思い返し、それ以上どうにもできなかった。セイの素顔は今、力なく垂れ下がった短い白髪のその下にある。
「…もう良い。」
小さく押しつぶすようなセイの呟きが耳に入る。
「…と仰いますと…?」
璃子は自分がひどく場違いな返事をしたと思った。けれど本当に何を@ヌいと言ったのか、その真意をつかめていなかったのだ。体を抱き起こすことを言ったのか…或いは…
「無様なところを見せた。」
そう言ってセイは自らの力で顔を上げた。璃子は間近でそれを見た。端正な顔付き、緑色に妖しく光る瞳…まるで猫の目のような三日月に似た縦線がその中に浮かぶ。荒ぶる鬼の面とは対称的に、あまりにも静かな表情。どこか見覚えのある顔立ちだった…けれどいつの記憶なのかは全く分からない。
「ゲホッ…ゲホッ…!」
「あぁ…大丈夫でございますか?」
ひどく咳き込んだセイを、璃子は慌てて気遣った。その素顔にばかり気を取られていたが、改めて見ればセイは体中が傷だらけになっていた。まるで内側から切り裂かれたような独特な傷跡。自身の体内に取り込んだ鎌鼬の影響なのだろうか…あちこちから血が滲んでいる。
「…私を…追ってきたのか?」
喘ぐようにセイが尋ねた。その緑の目が直接璃子に向けられる。未だ彼の息は荒い。
「はい、貴方のことが気掛かりで…。射られたりしなかったかと…。」
「矢は…当たらなかった…」
「ですがひどくお辛そう…お医者様にかかった方が…」
「いらぬ。この程度…いつもの事だ。」
「≠「つも…災いを取り除いていて下さったのですね。」
璃子の矢継ぎ早な言葉に、セイは静かな目線を向ける。何も言わずとも、その緑の瞳が肯定している。
「あぁ…村の者のなんと愚かな…。皆、貴方が災いをもたらしていると…」
「…言わせておけ。」
セイは一度瞳を閉じて溜め息をついた。
「ですが、私は貴方への誤解を解きたいのです。」
「必要ない。」
「しかし…」
「いや…″。は時期ではないと言おう。鬼はいるのだ、私の他に。それを見極めるまではこの均衡を崩してはならぬ。」
セイはそう言って体を完全に起こした。ふぅっと小さく息を吐き、遠くを何処ともなく見つめるようでいながら、その緑の瞳には固い決意が宿っていた。
「璃子、そなたはすぐに帰れ。」
セイは呼吸を整えながら、暗闇に映える緑の目を璃子へと向ける。彼のその言葉は、つっけんどんながらも、とても暖かみのあるものだった。
「貴方をこのままにしてはいけません。」
白髪を血で一部赤く染め、体中に見慣れぬ傷を沢山負ったセイを前にして、璃子の心はひどく痛んでいた。このような手傷を負った状態で暗い森の中に一人でいるのは、体力以上に精神力を消耗する。もしこれが自分なら人恋しくてたまらない。たとえセイがこのような一人の夜を≠「つもの事だと言ったとて、彼をこの場に一人にするのは、自分を置き去りにすることとまったく同じ感覚であった。
「いや、帰れ。あの騒ぎの中いなくなったとあれば、いらぬ誤解が増えるだけだ。新月のたびに増える誤解を、私もこれ以上は背負いたくない。」
再び小さく息を吐きながらセイは目を伏せた。その表情には僅かに哀しさが見て取れる。璃子はぐっと唇を噛みしめ、悔恨に頭を垂れた。これほどセイに近いところにいながら、何一つ出来ない自分がひどく歯痒かった。
「…申し訳ありません、仰るとおりに。けれどせめて雨風の凌げる場所へ。」
そう言ってセイを自分を支えにして立ち上がらせると、そばにあった大きな木の根元の窪みに座らせた。そして取り落としていた装飾等と扇、鬼の面をそっと添えた。今はこうすることしか出来ない、とても情けない話だけれど。
「明るくなったらまた参ります。それまでどうかご無事で。」
「案ずるな。」
璃子はセイの言葉に頷いて村の方へ歩き出した。しかし未だ息の整わぬセイが気掛かりで、立ち止まっては振り返った。
「行きなさい。」
「…はい、セイ殿。」
セイに促され、璃子はそれこそ心を鬼にして山を下りていった。″sけと言ったセイの言葉が頭に残る。その柔らかな物言いに、璃子の記憶が確かに反応を示していた。