そうして見た鬼山村は騒然としていた。何処とも問わず鎌鼬は切り裂き続け、そこここに流血した我が子を抱え逃げ惑う母親たちの姿があった。非常の松明の明かりに、既に壁を割かれた家が浮かび上がる。璃子は「鬼だ」「災いだ」と罵倒する男たちの間を掻い潜って、切り裂く音のする方へと急いだ。迫る夕闇が人々の猜疑心を増長させる。
「…っ!!!」
不意に璃子は右腕に痛みを感じて歩みを止めた。ぬるりとした感触…鎌鼬にやられ流血しているのが見ずとも分かる。だが璃子は痛みに顔を歪めながらも、どこかおかしいと感じていた。
傷が…浅い…?
時折村に現れていたあの鎌鼬にしては、切り裂かれた腕の傷があまりにも軽い。衝撃は腕を切り落とされたかと思うほどだったにもかかわらず、その右腕は表面を血が出る程度に切られただけだった。これならば山の斜面を誤って滑り落ちた時の方がよっぽど重傷である。
「まさかこれは…」
璃子の頭を黒い鬼の面がよぎる。セイ殿…この変化はあの方の影響?
しかし鎌鼬が人々を襲っている事に変わりはない。村の男たちは口々に鬼を罵り、鍬や矢を手にその姿を探していた。セイを″ミいを呼ぶ悪鬼だと思い込んでいる村人たちは、新月が訪れるたびに退治しようと試みてきた。ある時には高名な祈祷師を呼び、一晩中火を絶やさぬ事もあったし、ある時には腕の立つ旅武者を雇った事もあった。それすら敵わぬと思い知らされた後でも、村人の鬼を退治しようという心は変わらなかった。璃子は今までそれをとても勇敢な事であると感じていた。災いがあるたびに伊國から出られずにいた臆病な自分には、とても鬼に立ち向かうことなど出来ないと思っていた。しかし…セイ殿…!あの方が鬼だったとしても、その根底は決して悪鬼なのではない。鎌鼬の出現と変化…セイ殿との関わりは一体どちらか、それとも両方ともなのだろうか?あぁ…せめてそれが分かれば!これ以上セイ殿を罵倒する言葉など聞かずに済むものを!
「来たー!!鬼だぞー!!」
璃子はあれほど閉ざしたいと感じていた耳にそれを聞いた。辺りを見ると誰もが酉の山を向いている。風が渦巻くように吹き荒び、山々は大きな音を立てる。木がセイの姿を隠したか、璃子にはその姿を捉える事ができなかった。しかしその合間から煌く微かな光。村の松明に時折反射するその光はおそらく鬼の面…金色の瞳。
セイ殿…!
間違いない。いつものような人外な速さで、山を駆け下りてくる姿が璃子の目にもやっと映る。人々はそのセイの姿に恐れおののき、金切り声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。璃子はその場を動かず、ただ闇に紛れるセイの姿を追っていた。右手には神楽の装飾刀を、左手にはあの扇をそれぞれ持ち、真っ直ぐに迷うことなく駆けてくる。璃子にすら見向きもしない。
「…セ…」
璃子は呼び止めようとしたが出来なかった。あまりにもセイの足が速く、あまりにも人の目があったためだった。だがその代わりに視線はセイから一時も離さなかった。彼は何か見えない一点を狙いすまし、素早く右手の装飾刀を振り下ろした。そして間髪入れずに扇でそれを抱え込む。その瞬間に村を包んでいた重い空気が取り払われた事に気がついたのは、おそらく璃子だけだったことだろう。彼は今間違いなく村を襲っていた鎌鼬を両断し、その身に災いを封じ込めたのだ。セイは鎌鼬を抱えて村から遠ざけようと、そのまま速度を変えず卯の山の方へ向けて鬼山村を駆け抜けていく。
「放て放て!」
璃子はすぐ近くで、弓の弦のキリキリという研ぎ澄まされた音を聞いた。
「何を…何をなさるのです?!」
矢の向くはセイ。何人もの男たちが卯の山へ走っていくセイの背中に照準を合わせている。璃子は思わずその中の一人にすがった。今まさに村から災いを取り祓った方を射抜くなど、なんと愚かな…!
「何を申す!?鬼は退治せねばならん!」
男の言葉が終わらぬうちに、あちこちからヒュンヒュンと矢の翔ぶ音が鳴り響く。早くも暗闇に紛れていったセイに、その矢の行き先がどうなったかを見ることは出来ない。しかし夕闇とはいえ、これだけ大量に放たれていく矢をかわすなど至難の業。もしもあの方に命中するような事があったら…!
あぁ…!今度は私がセイ殿を助けて差し上げねば…!たとえ今この場に立ちはだかる事が出来なくとも!
璃子は自分の不甲斐なさを心底悔やみながらも、ゆっくりと後退りをすると、着物の裾を持ち卯の山へ人知れず走り出した。脚力など到底敵わない…遠回りもしなければならない。普通に考えれば、それを人外な速さで先行するセイに追いつけようはずもない。しかしそれでも卯の山で再びあいまみえないとは、不思議と微塵も感じてはいなかった。