夜の月は日毎細く欠けていき、とうとう新月の日を迎えた。星ばかりが煌き始めた夕闇の空を見上げ、璃子はセイの言葉を反芻していた。
…会ってはならぬ、少なくとも新月を迎える頃は…
あの言葉は新月以外なら会うことを許したもの…そう捉えて良いものだったのだろうか?あの方はただ冷たいだけではない。未だ鬼の面をお外しにはならないけれども、私はセイ殿の面の下を存じ上げているような心持ちがしている。私が垣間見たのはセイ殿の御心…それ故にそう感じるのだろうか?しかしそれに伴う懐かしい気持ち…その正体は未だつかめない。お会いして分かるものならお会いしたい、何度でも。尤もセイ殿は≠サれはならぬと仰るかもしれないけれども。
「璃子や、雨戸を閉めますよ。」
母は縁側でぼんやりと空を見上げている璃子を中に入るように促した。
「今日は随分早くお閉めになるのですね。」
いつもなら日が完全に暮れてから雨戸を閉ざす。秋の夜長は虫の声が美しい。神無月は菊月ほどに多く聞こえはしないけれども、それもまた趣がある。儚く減っていく虫の命が冬の訪れを数えさせるものだ。それが何故今日に限っては、酉の山際未だ紅く染まるうちに閉めるなどと…
「今宵は新月です。特に神無月の新月は鬼が最も多く災いをもたらす日でもあります。若様が家中の雨戸を閉めて回るようにと。虫も鳴りを潜めましょう。さ、貴女も家を回って雨戸を閉めていらっしゃいな。」
「はい、母様。」
璃子は母に言われたとおり、伊國の母屋の反対側へ回り、未だ開け放たれている雨戸を閉め始めた。しかしそうしながらも心は未だ山の上。新月には災いがおきやすい…考えてみればそうだったかもしれない。月に数度、決まって静か過ぎる夜の事。神無月は瑠璃姫様たちが亡くなった月だという事もあって、更に起きやすいのだとも考えられる。セイ殿はそのことを踏まえて@てはならぬと仰ったのだろうか。さもあらば新月の災いとセイ殿にはどのような関係が…
「何者?!」
璃子は背後を素早く駆け抜ける気配に思わず振り返った。野犬や野良猫といった類の気配ではない、しかし同時に昨今感じていた、あの実体のない不快なものとも違う…それとは別の人の世にあらざる妖かしなる気配。いつも村が災いに晒されていた時に感じていたもの。体はちゃんと動く…あの不快な膜に比べる今となっては、この妖かしも以前ほど脅威に感じるものではない。その一方で怖い事が確かであっても。
璃子は小さく一歩気配のした方へ踏み出し、その根源を見つけようと見回した。依然気配はあるが音はしない。
「誰か潜んでおるのですか?」
璃子はその気配に話しかけてみた。万が一にもセイ殿が山を下りてきたのではと、そう考える事が愚かだとは思いながら。
ザンッ…!!
「!?」
璃子は驚きに息を呑み、気配とは反対側…音のした家の方に向き直った。何もいない…けれど今まさに閉めんとしていた雨戸が支えをなくし崩れ落ちる。ギギギィ…と軋んだ音を立てて、縁側から庭へと倒れていった。雨戸はあまりにも綺麗に真二つに割かれていた。
「こ…これは…」
後退りと共に璃子は呟いた。その切り口は到底人間業とは思えない。
ザシュッ…!
ズバンッ…!!
その間にもあちこちであらゆる物を切り裂く音が鳴り響く。伊國家の囲いの向こうからは人々の悲鳴が上がっている。あまりに素早い動き、あまりに鋭い切れ味…
「まさか…鎌鼬?!」
三対の鼬の妖怪…人を突き飛ばし、切り裂き、血止めの薬を塗っていく。だが鬼山村に現れる鎌鼬はそのように生易しいものではない。切り裂く鼬のみがやってくるのか、鎌鼬に切られ血にまみれるものが後を絶たない。それは全て血に飢えた鬼が呼んでいるためだと、誰もが口にし忌み嫌う。
「セイ殿…!」
けれどあの方はそのような事をなさらない。璃子は強い決意で母屋を飛び出した。特に何かができるのだとは微塵も考えていなかった。ただこの鎌鼬がセイとは無関係だと感じたくて…あわよくばこの災いがセイによるものではないのだと村民に知らせたくて、璃子は雨戸の事も呼び止める母の声も聞かず、伊國の囲いの外へ出て行った。