「るり子姉さま、お嫁ぎになっても彼岸には必ずお帰りになってくださいね。清二郎に色々なお話をしてくださいな。」
「はい、そうしたらまたこの場所に参りましょう。」
「はい!」
清二郎は心底嬉しそうに返事をすると、窪地の傾斜を駆け上がり伊國家へと歩き出した。璃子は立ち上がってその背中をしばし見つめていた。来年にはこの小さな背中も、一回り大きくなっていることでしょう。いずれ三神村のすべてを背負うことになる…逞しくあれ。
「?!」
不意に璃子の目の前を何かが横切った。璃子は慌ててそれを目で追う。見つけることを願い続けて来たオニヤンマ…変わらぬ大きな体で流れるように空を舞う。
…よもや…
璃子はその場から動かないながらも、ずっとオニヤンマの行き先を追った。オニヤンマは璃子の目線を子の山の山頂方面へと導いていく。あれから暫く見ることのなかったオニヤンマ…鬼の遣いはすっかりなくなったものだと思っていた。あの方が鬼の面をなくしてから。しかし…
清十郎様…
璃子は木の影に人影を見つけて、心内で小さく呟いた。その体の半分と見えてはいないが、あれから随分伸びて一つに結んだ白髪や、変わらぬ赤い着物が見て取れる。オニヤンマはその人影の元へ迷わず飛んでいった。鬼の遣いたる羽は、未だ健在であったのだ。
「るり子姉さま、いかがなさいました?」
遠くあさっての方向を見ている璃子を清二郎が呼ぶ。璃子はその声に無意識の内に動こうとしていた足を止めた。清二郎はなかなか窪地から上がってこない璃子を見て、引き返しては覗き込んでいたのだ。
「あ…いえ、なんでもございません。ただ…」
璃子は一旦目線を清二郎に合わせ、それからすぐにオニヤンマの先に戻した。人影は幻であったか…見る先には重なり合う木々以外のものは何もない。
「何かあったのですか?」
清二郎は訳もわからず璃子の顔と、璃子の見つめる先を交互に見遣った。そんな二人に柔らかな風が山頂から吹きおろす。その風に僅かに感じる暖かさが、今の今まで木の影にいた人物の存在を思わせる。間違いなくいらっしゃったのだ…清十郎様は。遠く隔てて尚、こうして心や思いは傍らにある。貴方もきっと…この幼い跡取りを見守って下さることでしょう。
「いえ…ただ山神様がいらっしゃったような気がしたのです。」
璃子はその木の影から目を逸らすことなく、小さく呟いた。“山神と共に生きる”…あの方はご自身のそのお言葉どおり、清らかなお心で生きておいでなのだ。
「まだいらっしゃいますか?」
「…残念ながら。しかし三神村は山神様に守られた地…いつでもお側にありましょう。」
璃子はそう柔らかく微笑むと、再び窪地に下りて来ていた清二郎の背をそっと押した。
「さ、今度こそ参りましょう。」
「次に来た折りにはお会いできますか?」
「山神様にそうお願い申し上げますわ。」
璃子は清二郎の小さな手をとって、子の山を伊國家へ向かって歩き出した。西に傾き始めた太陽が、少しずつ赤くなりゆく光を照らす。璃子は不在を知っていながらもう一度振り返った。
行きなさい。
オニヤンマがその言葉を代弁するように、木々の間をすり抜けるように飛んでいった。
【完】
オマケ