しかし意識を失う寸前、璃子の耳にガサッと何かが地に降り立つ音が聞こえてきた。その音が璃子の意識を現に呼び戻したのか、今再び彼女の視界は元の通りに開けつつあった。それに伴い、不思議とあの不快な膜のように感じられるものが薄らいでいくのを感じた。強張っていた体が緩和され、痺れや鳥肌も徐々に消えつつある。
「あ…!」
急に金縛りが解け、足に力が入らなくなっていた璃子は思わずその場に座り込んでしまった。少しチクチクと痛みを感じる地面に、先程までのあの不快感が夢だったかのように思われた。けれど依然あがった息、引かない冷や汗…夢ではない、しかし同時にあれが現実だったとも思えない。
「私は…一体…」
璃子は恐る恐る顔を上げた。その目の前に見慣れぬ足が見える。濃い藍色の袴…白い線が裾の際に描かれている…そして長い事野山を駆け回っていることを思わせる草鞋…。璃子はその視線をゆっくりと持ち上げた。腰には神楽で使う装飾刀を携え、むき出しの腕には鎖帷子を纏い、紅い丈の短い着物を襷がけにしている。日の光に空ける短い白髪は、歪な形の黒い顔の影の上でなびく。その…その顔は…
「…鬼…?!」
璃子は息を呑むように呟き、じりじりと出来うる限りの速さで後退りした。璃子が振り向いた一瞬で、鬼が手を引っ込めるような動作をしたのが見えた。一体その手をどうするつもりだったのか…。恐ろしさに染まる目に映る鬼は、噂に聞いたとおりの単身痩躯…まさか…まさかこのように間近に居合わせるとは…!
しかし鬼はそんな璃子を無視するように、手に持っていた扇を広げ辺りの空気を集めるように仰いだ。何をしているのか璃子には全く分からず、鬼から目線を外さぬまま手探りで落とした籠を持ち、背後の木を使って何とか立ち上がった。そして同じ目線の高さでまじまじと鬼の面を見つめた。黒い顔面、渦巻く紅い眉、金色の瞳と食いしばった歯、額には般若のような角が生えている。鬼の面の怒ったような表情のその下は、おそらく無表情なのだろう。鬼はそんな璃子の目線を無視するようにゆっくりとした舞を舞いながら扇を翻らせ、そして途端にそれをパチンと勢いよくそれを閉じたかと思うと、今一度鬼は璃子の方を見遣った。面の金色の瞳の向こうと不意に目が合う。
「ひ…っ…」
璃子は怯えて息を呑むと、弾かれたように走り出した。そしてそのまま振り返らずにただ走った。もしかしたら鬼はあの扇を使って不快な膜を村へと運んでいたのかもしれない。この真下には伊國家の裏門がある…母様や若様たちに何かあったら…!
「母様!!」
璃子は庭の砂利に足を取られながらも、ちょうど縁側を歩いていた母の姿を見つけ走りこんだ。
「璃子…一体どうしたのです?そのように青い顔をして…」
母は縁側に倒れ掛かるようにして息を切らしている娘の肩に手を置いた。
「何もありませんでしたか?…私…もしあれがこの家に来ていたらと思うと…」
「何を申しているのです?璃子、落ち着いてお話なさい。」
少し厳しい母の物言いに、璃子は一息二息深呼吸をすると、未だ早鐘のように打つ胸を押さえて口を開いた。
「母様…私、鬼を見ました。」
「まさか…なんて事!体は何ともないのですか?!」
「えぇ…危うく憑り殺されるかと思いましたが…幸運にも逃げることが出来ました。本当に恐ろしい…もはやこれまでかと…。」
璃子はあの感覚を思い出して身震いをした。あのまま視界がなくなった先にあったものは間違いなく死。思い返すほどにすんでの所だったのだという思いに駆られる。
「ああ…けれど無事で何よりです。」
母は震えるような声で璃子を抱き寄せた。
「しかし母様…私栗を…」
そう申し訳なさそうに籠を持ち上げた。早生の栗をようやっと見つけたのに…
しかし璃子はその手に今まで気が付かなかった重みがあることに感づいた。籠を持ち上げるのに伴って、ガサリと微かな音を立てる。璃子は驚いて籠の中を覗き込んだ。そこには小振りな毬栗が五つほど、さも当たり前のように入っていた。
「まぁ…しかしこれだけでも十分ですよ。」
「しかし母様、私…」
「この栗は私が若様に献上いたしましょう。くれぐれも鬼のことは内密に…こと大旦那様には…。分かりますね?」
「え…えぇ…」
璃子は思わず言葉を飲み込んで、ただ母の言いつけに頷いた。何故…私は一つとて栗を拾っていないはず。偶然に籠の中に入るわけもない。仮に入ったとしたらいつの間に…
「さ、じきに日が暮れます。お上がりなさい。今日は特に戸締りに気をつけましょう。あなたは部屋で少しお休みなさいな。落ち着いたら夕餉の支度を手伝うのですよ。」
「…はい、母様。」
璃子は素直な返事をしながらも、心内は不可解なわだかまりでいっぱいだった。今はまだ恐怖から逃れた安心感で思考が疎かになっているけれど、それも徐々に整理されつつあった。鬼山村の山の鬼…噂に反するこの直感は一体何を示唆しているのだろうか…。