そう思いながら璃子は顔を上げた。その目に一際色づいた背の低い木が目に入る。
「あら、あれだわ。」
物思いに耽って歩くうちに、いつの間には呼び寄せられていたのか、璃子の目の届く範囲に茶色い毬栗が生っていた。やはりまだ色づいているものは少ない…落ちている実も僅かしかない。けれど木を揺らせばいくらかは落ちましょう。璃子はいそいそと早生の栗の木に駆け寄った。
「…っ!」
そんな璃子の足が不意にビクッと体を震わせるようにして止まる。足だけではない…指先も顔も髪の毛でさえ、まるで時が止まったかのように動きはしなかった。
「な…何が…」
訳も分からず璃子は呟いた。しかしその声もうまく出せない。体がガクガクと震えだし、鳥肌が全身にそそり立った。秋だというのに汗が噴き出してくる。早生の栗の木まであと数歩というところで、璃子は完全に金縛りにあっていた。それが寝ている時に起こるものならどんなにか良かったろう…。今璃子の体を縛り付けている金縛りは、その何倍も怖いものだった。
う…動けない…けれど逃げたい…けれど動けない…!
璃子は目だけを動かして自分の足を見遣った。足は地に根付いてしまったかのように微動だにしない。
誰から逃げるの?何処へ逃げるの?分からない…分からない…怖い!!
璃子は混乱状態に陥りながらも、周囲に素早く目線を動かした。せめてこの恐怖の根源が知りたい…見えない恐怖と見える恐怖とでは度合いが違う。けれど、どれだけ目を凝らしても周りには何もいない…見えない。体がぴくりとも動かないまま、璃子の呼吸は急激に浅く早くなっていった。先程まで心地よく聞こえていたはずの木々のざわめきが、今は恐怖を増長させる。
もしや…鬼…?
璃子の頬を冷や汗が一筋伝い地面へと落ちる。今まで鬼がもたらした災いには度々遭ってきたけれど、このような事は一度もなかった。まさか今までにないほどに、鬼が近くにいるのでは…?!
「?!」
璃子は何かの気配に感づいて、半ば無理矢理動きづらい首をその方向へ向けた。里山の遥か上…酉の山の頂上から何かがこちらへ向かってくる。それもおよそ人とは思えぬ速さで。璃子にはそれが見えるのではなく感じる。何者かが伊國家の裏門を目指すように近づいてくる…だがそれは何処に?これだけの速さで移動していると思われる一方で、全くその姿が見えない、草木を踏みしめる音すら聞こえてこない。さも遠くにいるような装いをしていながら、気配だけは近くにある。近い…近い…もうすぐそこ…!璃子の心臓は張り裂けんばかりに脈動していた。
「あ…!」
不意にどろりだかぬるりとした感覚が璃子を包む。この世においては決して感じえないと思えるほどの不快な感覚。息が詰まる…鳥肌が立つ…体がガクガクと一層強く震えているのに、自分の意思では体を動かせない。手足の先は冷たく感じられ、末端から這い上がってくるような痺れすらある。
「あぁあ…母…様…!」
璃子は咄嗟に母の名を口にした。しかしその声も不快な感覚の幕に吸い込まれていくように儚く消えた。目の前がみるみる黒くなっていく…視界が狭まっていく。
何も見えない…何も聞こえない…。あぁ…私は一体どうなってしまうの…?