その山には鬼がいると言われていた。

 

 

 

 三方を山に囲まれた盆地にあるこの小さな村は、他の地域より少しばかり災いが多かった。だがその¥ュしばかりという言い方も、ある意味で村人たちの気休めのようなもので、実際には一月に二度も災いが起こることを誰もが¢スいと感じていた。

それを鬼のせいだと人は言う。村を囲う山々にいつからか住み着いた鬼が災いを呼ぶのだと、聞けば誰もが口にした。その風貌は単身痩躯、白髪に黒い鬼の面をつけた老翁だとされている。しかし誰が見たというわけではない。平素鬼は広い山のどこかに身を隠し、災いをもたらしに山を降りてくる時も決して面の下を明らかにしようとはしなかった。村人は鬼を恐れ、度々祈祷師を呼んではお祓いをしたが災いは一向に収まらず、いつしかこの村は(おに)山村(やまむら)という不名誉な(あざな)がつき、出入りするものもめっきり減るばかりであった。

 

 「璃子(りこ)…璃子や。」

「はい、母様。」

庭を掃除していた小間使いの少女は、自らの母親に呼ばれ竹箒の動きを止めた。鬼山村を治める伊國家の領地は、その背後に三方の山のうちの一つを抱えており、秋にはいつも山から落ちてくる落ち葉で庭が満たされていた。紅や黄に染まった美しい落ち葉から、ただ茶色く変色し、この年の山の緑を担っていた老いた葉まで、様々に風に乗ってはやってくる。それを掃除するのは常に一番年若い小間使いの役目で、この年の初めに髪上げしたばかりの少女は、まだあどけなさが残る色白の顔で毎日庭を竹箒で掃いていた。

誰に似たのか、くりくりとした大きな目があまりに着物や結い髪に不釣合いだと、仕える家の大叔母には散々苦言を呈された。このような顔では若の妾以外に嫁ぐ先もないでしょうとさえも大叔母は口にした。母は表向き「真に仰るとおりで」と言われるたびに頭を下げたが、大叔母の耳の届かないところでは「お前の顔はおばあ様にそっくりなのですよ。おそらく隔世遺伝なのでしょう。私の目の形に似れば良かったのですが…いずれにしても大叔母様のお言葉を気にしてはなりませんよ」と、切れ長の綺麗な一重で娘を見つめ返すのだった。

 

 

「若様から…(きみ)三郎(さぶろう)様からお言付けですよ。裏の里山へ行って栗をいくらか拾って参れと。」

「栗ですか?しかし今時分はまだあまり採れませんよ。」

璃子は山を少し見上げて口にした。確かに伊國家に舞い落ちる茶色い葉は日毎増えてきてはいたが、それでも栗の生る時期には幾分早い。それは毎年落ち葉掃きをしていたが故に分かる事。山がどの程度色づき、落ち葉がどれだけ舞い落ちてくれば栗が食べ頃なのか、それを見極める目が璃子には文字通り自然と宿っていた。

「私もそう申し上げたのだけれど、拾えるだけで構わないとのことです。早生(わせ)の栗なら少しはあるやもしれません。」

長く栗を採り慣れた母は、娘よりも研ぎ澄まされた目で後方の山を見遣る。

「分かりましたわ。けれど…公三郎様はよく私にお申し付けになりますね。先日も山へ行ったばかり…」

「それだけよくお前を見てくださっておいでなのですよ。さぁ、日が暮れてしまわないように早く行って参りなさい。」

「はい、母様。」

璃子はお辞儀をしてその場を離れると竹箒を元の倉に戻し、同じ場所にしまわれている小振りな籠を手にとって裏門へと歩みを進めた。

 

 

 

 村を囲う三方の山々はそれぞれ方角になぞらえて、西を%ムの山、北を℃qの山、東を♂Kの山といった。璃子が向かったのは酉の山、仕える家の真裏にあるその山の木々も神無月になってようやっと緑色をなくしていた。暑い夏が終わりを告げ、最後のヒグラシが鳴かなくなって一月。やはりそれでも栗の時期にはまだ早い。母様はああ仰ったけれど、早生の品種ですら生っているかどうか…。璃子は空の籠をぶらぶらと揺らしながら、公三郎の父・鬼山村領主の伊國(いくに)喜一郎(きいちろう)の持ち物である山中を歩いた。

璃子の家は代々伊國家に仕える小間使いの一族で、母に付き従い璃子も小さな頃から伊國家の御曹司の遊び相手になるなど務めてきた。公三郎とも幼少の(みぎり)にはよく遊んだものだが、そのような馴れ合いも早いうちからなくなっていった。それが主従の関係、公三郎は当代の後に領主となり鬼山村を治めることになる人物。小間使いといつまでも遊ぶなと言われたのかもしれない。そんな公三郎も今年で数えの二十になる。正妻も妾も亡くしたまま還暦を迎えた喜一郎は、歳にもまして老け込み意気消沈しているように見える。公三郎に世代交代するのも、死を待たないかもしれない…と、伊國家の小間使いたちは皆囁き合っていた。

 「ここも…まだだわ。」

璃子はまだ青々とした毬栗を見上げて呟いた。栗が好きな喜一郎が長い期間栗を食べられるようにと、わざわざ早生の栗の木を植樹したのだと璃子の母は言っていた。璃子はまだその木を探し、見分ける事がすぐにはできない。何より鬼がいつどこにいるかもしれないこの里山で、その恐怖心が奥まで探しに入る足を鈍らせていた。

鬼山村は山々に囲まれた、ある意味で閉塞的な土地。唯一開けている村の南側の水田には、間もなく収穫となる稲穂が揺れてはいたが、村人全員が豊かな生活を営むには不十分で、いくら鬼がいるとはいえど、糧を山に求めないわけにはいかなかった。かつては山の立派な木を、名のなる神社の御柱にするなど林業も盛んであったが、それもとうに過ぎた話。皆鬼が恐ろしく、いつの頃からか必要以上に山に関わる事を誰もが避けるようになっていた。

「どの木を西に見るのだったかしら…」

璃子は母に教えてもらった道標を見つけようと辺りを見渡した。母が言うには若干白い幹の木を、西に据えたなら正面を見よ、とのことだった。けれどどの木も同じに見える。見上げる木に生るのは緑の毬栗。涼しくなってきた秋の風が里山を賑やかにする。いくら拾えるだけで構わないというお言付けでも、拾わずに帰るわけには行かない。

喜一郎様が…大旦那様が召し上がりたいと仰ったのかしら…。それにしても公三郎様も意地悪ね、わざわざ早生の木をうまく見つけられない私に栗拾いを命じるなんて。

そう思いながらも璃子は微笑んでいた。昔、子供の頃に遊んでいた時も、公三郎様はそうだった。それは本当に…本当にお小さかった時。少年時代にはすっかり大人におなりで、めっきりお遊びにはならなかった。ちょうど奥様方がお亡くなりになった折、きっと大旦那様が沈んでいらしたから、公三郎様が毅然といらっしゃるのかもしれないわ。

 

 

  

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