あの時の事を思い出してみる。
最初に不可解と感じるのは、自分が意識を取り戻したその刹那。それまで死をも予感させるほどに絶望的だった空気が、一瞬にして晴れた。晴れたその訳は…鬼…そうとしか考えられない。さもあらば、あの不快な膜は鬼のせいではなかったのだろうか?鬼でなければ物の怪か…だが鬼以外の妖しが山々にいるなどとは聞いたことがない。邪気を祓うは神、あの場にいたのは鬼。辻褄がどうしても合わない。
しかし一つだけ辻褄が合っていることもある。早生の栗を籠に入れた者…それはやはり鬼。入れたのはおそらく私が意識を失いかけた瞬間。気が付き、顔を上げたと同時に手を引っ込めた…あの手は私を捕らえようとも襲おうともするものでもなかった。思い返せば確かに何かを与えたように天へと向けられた掌。何故鬼はそのようなことを…。
璃子はふと自分の手を見つめた。色白でふっくらとした若々しい自分の手。そういえば…もう一つおかしいことがある。舞を舞う鬼の手甲のその下も、同じような手をしていた。手だけではない…鎖帷子に覗いた腕も、面の際に見えた首筋も、とても噂に聞いていた老翁には見えなかった。確かに今まで鬼を間近に見た者がいると聞いた事はなかった、璃子自身鬼を直接見たことは一度もなかった。§V翁を裏付ける証拠は何一つない。しかしそれとは逆の年若い証なら、璃子の目にしっかりと焼きついていた。齢二十を過ぎた頃…だろうか、若様と同い年か心持ち年上にも見て取れた。
「璃子。」
庭の井戸端で心ここにあらずという表情で考え込んでいた璃子の名を、若い男の声が呼んだ。
「若様。」
璃子は振り返り、縁側に立っている細身の男、常日頃℃癡lと呼んでいる公三郎に歩み寄った。端正な顔つき、切れ長の黒い眼差しが璃子に静かに注がれる。長めの黒髪を緩い髷にして、いつもの簡素な菫色の着物を纏っていた。
「若様、いかがなさいました?」
「いや…私のことよりお前がどうかと思ってね。」
「私…ですか?」
璃子は内心ドキッとしながらも、きょとんとした表情で公三郎を見つめ返した。
「昨日の夕餉の時に酷く青ざめていたから気になってね。私が栗を採りに行かせたことで何かあったのではと…」
「いいえ…とんでもないことでございます。きっと急に涼しくなってきた秋の風にやられたのですわ。お心遣い、痛み入ります。それよりもあれだけしか栗をお持ちできず、とても不甲斐なく…」
「そんな事はない。父上はとても喜んでお召し上がりだった。感謝するよ、璃子。」
「恐れ入ります。」
璃子は深々と頭を下げ、その隙に公三郎の足を見遣った。いかにも箱入り息子の足らしく、野山を知らない綺麗なもの。あの鬼の足は違った…ただ汚れているのではなく、野山に順応しきった細くも剛健な足。若様と同じくらいの齢だとしたら、一体いくつの折より山に住み着いていたのだろう。
「どうした?璃子。」
「あ…何でもございません。失礼を致しました。」
いつまでも頭を上げないことを公三郎に突かれ、璃子は慌てて弁解した。あの鬼の纏う空気はどこか若様に似ている…けれど何の確証もない。しかし確証のないことが必ずしも可能性を否定する事にはなり得ない。今信ずるべきは自らの直感。もう一度会って…確かめたい。あの方が本当に災いをもたらしている鬼なのか。
「母様、山に住む鬼は一体何処に潜んでおるのですか?」
璃子は寝しなに布団から顔を出して、行灯の揺れる光に浮かぶ母に問いかけた。
「まぁ…璃子や、そのような事を聞いてどうするつもりです?」
「ただ…知りたいのです。」
その言葉に次ぐ≠烽、一度会ってみたいという真意は口にはしなかった。璃子は内心、母が「教えられない」と口にするものだと覚悟していた。しかしその一方で強い目線で母を見遣る。母はそんな真剣な眼差しの璃子を前にして、立ち上がって狭い部屋の戸をしっかりと閉めると、再び璃子の近くに正座をした。璃子もそんな母の様子に布団から起き上がる。
「あくまで噂ですよ。」
母はまず念を押す。
「鬼はいずれかの山のどこかにある廃神社に住み着いていると聞いたことがあります。それがどの山の頂上なのか、それとも中腹なのか…それすらも分かりません。見た者がいるとも聞きません。その廃神社はかつて三方の山神様を奉っていたもの…今は宮司もいなくなり、正確な位置を知る者もいないのです。何者かが古地図を見て憶測した…というもう一つの噂がきっと正しいのでしょう。」
「その古地図はどの御家にあるのですか?」
「さて…ただ伊國家でないことは確かです。」
母は嗜めるような目線で璃子を見遣った。その表情に行灯の火の揺らめきが、不規則な影を作り出す。璃子は母に気付かれないように唇を噛んだ。噂と言っても不確かな部分が多すぎる。あまりにも曖昧で噂の尾ひれもつかないのか…これでは捜すあてすら掴めない。再び偶然に出会う事を見込んで山に入るのみか…しかしそれで昨日と同じことになりでもしたら、今度こそ命があるかどうか…
「…噂はもう一つあります。」
ややあって母は切り出した。
「もう一つとは?」
「°Sの元にはオニヤンマといいます。」
「オニヤンマ…ですか?」
璃子は不可解と言った表情を浮かべた。数ある蜻蛉の中で最も大きな種類…オニヤンマ。その羽を広げれば大人が手を広げても足りないほどに大きく、体には黒と山吹の縞を持つ。幼子の憧れともいえるその虫は、木々や清水の豊かなこの村においても、なかなか見られるものではない。
「オニヤンマが鬼を慕っているのか、鬼がオニヤンマを手懐けているのか、それは分かりません。けれど共に現れる事が多いようです。それ故に子を持つ親はオニヤンマを見ると子供を家へと入れるのです。璃子、あなたもこれからは山でオニヤンマを見ることがあったら逃げねばなりませんよ。」
その言葉は髪上げをした璃子への、母が今になって与えた大人の証。鬼に会いに行こうという璃子の隠れた真意を感じ取り、母は再度念を押したのだった。このオニヤンマの話は璃子の自衛のためを思って話したのだ、裏切るでない、と。それは璃子にも分かっている。そして自分が母を裏切れない事も重々承知。
けれど母様、もしあの人があらぬ誤解を受けたまま°Sだと言われているのだとしたら、助けて差し上げなければならないと思うのです。それが出来るのは鬼を間近に感じた私のみ。今ひとたび…もう一度だけ、出来るならあの面の下を垣間見たい。
「璃子、返事がありませんよ。」
「はい、申し訳ありません、母様。」
「さ、行灯の火を消します。早くお休みなさい。」
「はい、お休みなさいませ。」
璃子はそっと頭を垂れると、再び布団の中へと潜り込んだ。行灯の火が消えて辺りが月明かりに仄暗くなっても、璃子は目を開けて天井を見つめていた。その目にあの鬼の姿が浮かぶ…ふとこちらを振り返って目の合ったあの瞬間。恐ろしい反面でどこか懐かしさを感じた。それに伴うのは哀しい、寂しい気持ち。璃子は静かに寝息を立て始めた母を横目で見遣った。そして静かに目を伏せて、僅かにお辞儀をするように首を動かすと、先程よりも深く布団に潜り込み、その重くなり始めた瞼を閉じたのだった。