公三郎には$謫の栗拾いでかんざしを落としたと伝えた。そしていつもつけているかんざしを外して懐に忍ばせ、璃子は伊國家の裏門から里山へと登っていった。昼間の里山は穏やかで、木漏れ日が揺れながら璃子に注ぐ。少し高台の開けた場所に出れば、そこからは鬼山村が一望できる。南方にある村へと至る一本道には道祖神が据えられており、その道に平行するように水田が並ぶ。向かいの卯の山から流れる川が水田を潤し、小さいながらも鬼山村の水田は安定した収穫を村人にもたらしていた。水田と山々の間には集落が並び、北方の子の山の麓には秋の豊作を祝う神楽の舞台が建てられていた。たとえどのような災いがあろうとも、秋の祭りは必ず行なわれてきた。伊國の領主が、子の山にある神聖な祠に奉納金を奉る限り、祭りは続けなければならないという一種の村人たちの意地のようなものでもあった。その時ばかりは皆、災いのことなどすっかり忘れたように振舞う。

けれど実際、祭りを心の底から楽しんでいたのは子供らであった。大人になればなるほど、怖いものが増えていき目に見えてきてしまうもの。夕暮れとは異なり、昼間の山々はあちこちから鳥のさえずりが聞こえてきては人の心を和らげる。何も知らぬものが見れば、とてもこの山に鬼がいるようには思うまい。璃子でさえ先日のあの危機がなかった事のように感じられた。この穏やかな時間が絶えることなく続けばよいのに。それでも夜はやってくる。災いと鬼に縛られた哀しき村。

 「鬼は廃神社に住む…か。」

璃子は母の言葉を思い出して口にした。確かに鬼山村の三方を囲う山々には、それぞれ山神様を奉る社があるのだと聞いたことがあった。しかし鬼が出るからと人が出入りしなくなった頃より急激に廃れ始め、宮司でさえも逃げ出した。いや、鬼に殺されたのだと言う者もいる。そのために昨今の絵師が書き残す地図には神社が描かれなくなった。その反面で地図には°S山村の落款を押す。もう…本来の村の名を口にする者もいなくなってしまった。本当の名を口にすると鬼が怒ると誰もが恐れて。

「ふぅ…」

璃子は急な勾配を上がりきって一息ついた。まだそこは里山から少し昇った中腹にも至らない場所、けれど随分登ってきたようにも感じられる。これ以上昇ることを躊躇う気持ちがそう思わせるのか、間伐が行き届かなくなった山の鬱蒼とした雰囲気に璃子も足がすくむ。

 

…帰ろうかしら…

 

璃子の心が小さく呟いた。ここまで登ってきて出くわさなければ、彼女にそれ以上捜すつもりはなかった。もとより母親が心配する。この小さな裏切りをこれ以上広げるわけにはいかない。退いた足にパキッと枝を踏む音がする。

「あ…!」

璃子は目の前を滑るように横切った大きな昆虫に思わず声を上げた。細く大きく風に乗る縞の体。特徴的な緑の目がすぐに見て取れる。

「…オニヤンマ…!」

自然と足がオニヤンマを追い始める。°Sの元にはオニヤンマ…廃神社に住むという噂にまして確証などないのに、璃子は何かに導かれるように追っていた。璃子の足の山の斜面を踏み分ける音だけがやけに大きく響く。先程までと風の強さも木々の様子も何も変わらないのに、まるで急に音が消えてしまったかのようだった。

 

オニヤンマ…この前の時にはいなかったけれど…

 

しかし体はその事実を受け入れない。璃子は自分が予め決めていた境界線を越えて山を登っていることには気付いていたけれど、オニヤンマを追う足と気持ちは止まらなかった。段々と息を荒くさせながら、どこか案内するように飛び続けるオニヤンマから目を離さなかった。

「す…少しお待ちよ…オニヤンマ…」

さすがに息が続かなくなり、伝わるわけのない言葉をオニヤンマにかけた。木に手を付き息を切らし、璃子はふと上がってきた斜面を見てしまった。改めて自分が夢中になって追いかけてきたことを思い知らされる…幾重にも重なった木々の影が、麓をすっかり隠して見えなくしていた。ただこの斜面を下りていけば自然と伊國家の裏門に出るかしら…あぁ…せめて道々に標を残してくるべきだった…。璃子は強い後悔の念を宿して、もう姿を消したであろうオニヤンマに僅かな期待をもって振り返った。

「…あ…」

璃子はその瞬間初めて言葉を失うということを体感した。姿を消したオニヤンマの代わりに山のやや上からこちらを見下ろしている影があった。西に向いているために逆光…けれどその透き通るような短髪が風になびいているのが見える。そしてその髪の間から僅かに覗く二本の角…

「鬼…」

璃子がそう呟くと同時に、鬼は素早く踵を返し山を更に登り始めた。その刹那に黒い鬼の面の金色の目が日光に反射する。

「あぁ…!お待ちを…お待ちください!」

璃子は息が整っていない事を忘れ、斜面を鬼を追って駆け上がった。木々の枝や根が璃子の進路を妨害する。鬼を見失うまいと前ばかりを見ていては、途端に足をすくわれる。鬼はなんと慣れていることだろう…あれほど素早く移動していながら音を殆ど立てていない。

「鬼の方…!お逃げにならないでください…!話を…!!」

聞かせて欲しい…聞いて欲しい。栗のこと、舞のこと…何もかもが噂に(たが)う鬼の行動。考えるほどに無意識の内に感じる、締め付けられるような胸の痛み。それが鬼に対する恐怖心を凌駕していた。今はただ…恐ろしくとも、その(おもて)をこちらに向けて欲しかった。鬼はそんな璃子の思いを背に受けてか、不意に立ち止まり振り返った。そこは尾根の影となる場所で、金色の目や口元がはっきりと見て取れる。

 

 

 

「話すことなどない。」

鬼が初めて口を利く。面の下のくぐもった声。その冷たい響きに璃子は木を五本ほど挟んだ距離を置いて思わず立ち止まった。

「何をしに来た。」

「あ…私は貴方にお目にかかろうと…」

「無駄な事。」

一つ一つの言葉が細く深く突き刺さる。やはり青年の声…立ち振る舞いもとても老翁には思えない。

「帰れ。二度と来てはならぬ。」

「では…では貴方は…?」

震える声で言葉を返す璃子に、面の下の不可解を示す表情が読み取れる。

「貴方は何故ここにおわすのですか?何故そのように鬼の装束を纏い山に暮らすのです?貴方の真の所は鬼などではないのでしょう?」

風が吹き荒び、ザザザァ…と木々が激しい音を立てる。璃子も鬼も微動だにしない。

「…二度同じことは言わぬ。」

鬼がややあって変わらぬ抑揚で突き放す。そしてなおも言葉を続けようとした璃子を遮って、おもむろに手甲を嵌めた手で麓の方を指した。その指の先に、開けた場所に僅かに覗く早生の栗…伊國の里山がそこにある。

「…貴方は一体…」

璃子は栗に気を捉えていた目線を今一度鬼の方へと戻した。しかしその瞬間には鬼は忽然と姿を消していた。

 

 

    

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