…二度と来てはならぬ
鬼の口にした冷たい響きが幾度も頭を駆け巡る。けれどその冷たさが鬼そのものなのだとは思えなかった。あの方はもう二度も私を助けてくださった。不快な膜から、そして迷い込んだ山の中から。鬼…人を喰らい災いをもたらす者。そう言い伝えられてきた。確かに災いはひっきりなしにこの村を襲う。神楽の面を付けた鬼の姿に畏怖の念を抱く。しかしそれは本当にあの方のせいなのだろうか?璃子はそれを思うたび、心に掛かるものがあった。そして同時に疑問符が浮かぶ。違う…決してそうではない、と。自らが口にした「真の所も鬼なのか」という問いに、あの方は肯定も否定もなさらなかった。何か事情があるのだわ。そう思いを馳せながら、璃子は釜に残る白飯に視線を落としていた。
「璃子や、若様からお遣いのお言付けですよ。」
朝餉の片付けに膳を下げながら母は炊事場に顔を出した。
「はい、母様。何でございましょう?」
璃子は振り向きながら僅かにドキリとしていた。母の言葉に反してオニヤンマを追ってから二日、母に対しての負い目が鼓動を早まらせる。
「まもなく大奥様の命日ですから、花を幾輪か摘んで参るようにと。山の戌亥に咲く桔梗が見頃であろうからちょうど良いでしょう。」
「戌亥…」
今まで鬼に出くわしていたのは酉…西の方角。僅かに逸れてはいるけれども、会える可能性はある。次はいかなる理由をつけて山へ行こうかと考えていたが、これは好都合だと璃子は思った。
「璃子…」
「はい?」
璃子の考え込む表情を見て母が呼び止める。
「若様や大旦那様は貴女が鬼と鉢合わせた事をご存知ではありません。それ故に山への遣いをお申し付けになるのですが…。もし貴女が山へ行くことを不安や恐怖に感じるなら、お断り申し上げても良いのですよ。」
「いいえ!…いいえ、母様。」
璃子は″D機と睨んだが故に強めてしまった返事を、慌てて静かな口調へと戻した。
「折角若様がお申し付けくださったのですから、私もそれを全うしとうございます。どうか母様…あぁ…私のことで心をお痛めにならないでくださいな。」
一度は母様を裏切った身…そして今再び同じ事を目論む私。既に私も母様のお優しいお心遣いを受けてはならぬのでしょう。
「…分かりました。ただくれぐれもオニヤンマの噂を忘れぬように。」
「承知いたしております、母様。ご安心くださいな、山は広うございます。あの山中で再び鬼に会うなど、枯山水の魚に小石を当てるようなもの。鬼は幻に過ぎませぬ。」
そう…あの方は人、さも鬼の化身であるかのように振舞ってはいても、あの時の躊躇いが人間らしさを物語る。人々の口にする°Sとは疑心暗鬼のことで、本当は鬼など山にいないのかもしれない。さればこそ鬼の存在は枯山水を泳ぐ魚の如く幻のようなもの。私がお会いしたいのは噂に上がる鬼ではなくあの°Sの方なのだ。
「では璃子や、必ず日の暮れる前に。」
「はい、母様。」
そう言うと璃子は慌しく下げられてきた膳を洗い始めた。
璃子が山の戌亥に来たのはちょうど午の刻を少し過ぎた頃であった。眼前には秋の柔らかな日差しと風に揺れる桔梗の波が広がっていた。五角形の紫の花弁が乱れることなく斜面に続く。母の言うとおり、桔梗はまさに盛りの頃であった。
伊國の大奥方、つまりは大旦那・喜一郎の正妻が早世した年のこの時期は、秋の冷たい長雨が続いて桔梗を供えることが出来なかったのだと母は言う。思い起こせばその年が最も多く鬼の災いに見舞われていた。その上何人もの村人が忽然と姿を消しては、不可解な死を遂げるということが後を絶たなかった。死体はいずれも人の成せる業とは思えぬもの。人々が鬼の存在を口にし始めたのも、ちょうどその頃からであった。その折にお亡くなりになった大奥方の死の理由もそれが為だと多くの者が口にする。
本当にお可哀相な大旦那様。大奥様のみならず同じ時期にそのご嫡男までお亡くしになって、愛妾の子とはいえ公三郎様がいらっしゃらなかったら、さぞや心を痛めていらしたことでしょうに。公三郎様は神様がお与えになった正に神童だったことでしょう。
璃子はそう考えながら丁寧に桔梗を摘み取り、持ってきた手桶に差し込んでいった。
「さて…」
璃子は長らく曲げていた腰を持ち上げて辺りを見渡した。木々の開けた場所に広がる桔梗畑はその続く限りの見通しが利いたが、そこに捜すものの姿はなかった。オニヤンマ…目にすればすぐにでも追いかけよう。しかしいくら見渡せど桔梗畑にはただ風の吹くばかり。鬼がいるときに恒常的に現れないところをみると、オニヤンマの話は確かに噂に過ぎないのだろう。初めて鬼の方にお会いした時にもオニヤンマは現れなかった。さすればいかにして会いに行くべきか…