「どなた?!」

璃子は突然背後に気配を感じ、素早く振り返った。僅かにゾクゾクとするような悪寒が走った…良い兆候ではない。それはあの時飲み込まれた不快な膜を思わせる。だが振り返れども何もない。何もないことがあの時と同じである事を裏付ける。ここは山の戌亥…伊國の安全圏にすぐに逃げ込める場所ではない。璃子は周りへの注視を途切らせないまま足元の手桶を持ち、桔梗畑の中央へと後退りした。四方の木の影から何かが飛び出してきそうで、少しでも距離をとりたかったのだ。辺りは耳鳴りがするほどに不気味に静まり返り、先程まで風に揺れていたはずの桔梗も微動だにしていない。まるで時が凍り付いてしまったかのような瞬間…不安を掻き立てる。

「な、何者です?!いるなら出ていらっしゃいな!」

璃子は震える声を辺りに響かせた。だが何の反応も返ってはこない。この辺りのどこにもいないようで、すぐ側に纏わりついているような不快な感覚…もしあの時と同じ事になれば…

「ああ…っ…!」

璃子は不意に立ちくらみ、その場にしゃがみこんだ。あの不快な膜に先立つ空気が体を通り抜けたような気がした。両腕が震え体に全く力が入らない。顔を上げて辺りを見渡しても、一体自分が何を見ているのかが分からない。自分の意思とは関係なく眼球が激しく動き、そのせいでひどい眩暈に襲われた。天も地も分からなくなる…立ち上がることができない。

「うぅ…いけない…」

璃子は酷い吐き気を伴いながらも、何とかこの不快な膜に抗っていた。しかしどんどんと重くなっていく体、狭まっていく視界…あの絶望的な膜が辺りを包み込んでいる。

 

何とか…何とかしなければ…このまま飲み込まれては…。

 

もしこれで死のうものなら若様がお気に病む…母様がお嘆きになる…。何より鬼の方への疑惑を深めてしまっては…ああ…けれど…

 

 

 

 「…そのまま動くな。」

失いかけた意識に静かな声が囁きかける。いつの間にか倒れこんでいた璃子の背には、そっと手が置かれていた。

「…あ…鬼の……」

「静かに。」

鬼はそう言うとバッと歯切れのいい音を立てて扇を広げた。今度は目と鼻の先で鬼の舞を見る。先日と同じように緩急をつけた扇の動きで周りの空気を自分に集め、不快な空気を和らげていく。それに伴って璃子の体も軽くなっていった。やはり思っていた通りだった…この不快な膜の根源がこの方であるはずがない。この方は今、何らかの方法で不快な膜を取り除いてくださっているのだ。

「立てるか?」

ややあって扇をたたみ、鬼は立ち上がって璃子を見下ろしながら尋ねた。

「あ…はい…」

璃子は多少ふらつきながらも頭を抑えて起き上がった。若干の眩暈は残っているが、今は天地がはっきり分かるまでに回復している。時が再び動き出したのか、桔梗が揺れ木々の音に鳥が囀る。まるであの時間が幻であったかのよう…けれど傍らには鬼の方が佇む。またもすんでのところだったのだ。

「あの…ありがとうございます、鬼の方。貴方に助けられたのは、これで三度目でございますね。」

「礼には及ばぬ。」

弱々しい笑顔の璃子に鬼はつっけんどんな返事をする。しかしその場を立ち去ったりはしない…確実に先日とは違う。

 

 

 「何故山に来た。」

鬼は%度と来るなといったのにという雰囲気を言葉に宿す。

「それは…伊國の大奥様への花を摘みに…」

「お前は命を狙われている。」

「わ、私がでございますか?!しかし一体何者に…」

「お前に花摘みを言い付けた者。」

「まさか…いえ、そのようなことはございません。」

璃子は戸惑いながらもきっぱりと否定した。それを言えば思い当たるのは、若様か大旦那様か母様…どなたも有り得ない。

「いずれにしても気をつけることだ。私もそうそうは来ない。」

「…はい。」

璃子は不安に顔を歪めながら小さく返事をした。心で何度も°然が重なっただけと言い聞かせながら。

 

 

 「用が済めばすぐに立ち去れ。ならべく山に踏み入れるな。」

「あ…お待ちください!これを…!」

璃子は踵を返した鬼を呼びとめ、懐から竹の皮の包みを差し出した。それは朝餉で残っていた白飯で握った白むすび。せめてものお返しのつもりだった。

「栗を私にくださいましたでしょう?」

「…あぁ…」

鬼は′セわれて思い出したという声を出した。

「そのお返しになればと思いまして…」

璃子はおずおずと包みを鬼へ差し出した。もしかしたらお受け取りにならずに立ち去ってしまうかもしれないけれど…

「…かたじけない。」

その言葉と共に差し出した手から重みが消える。包みは今や鬼の懐にしまわれていた。

 

 

    

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