「あの…!不躾ですが…!」
璃子はこれぞ好機の中の好機だと、慌てて言葉を繋げた。
「お話をしてくださいませんか?せめてお名前だけでも…私、貴方を知りたいのです!」
鬼は今、面の下で確かに驚いている…璃子はそう感じていた。二人の間を満たすのは、ただ風に揺れた桔梗の擦れあう音だけ。
「…名は?」
ややあって鬼の方から尋ね返した。
「あ…瑠璃子と申します。けれど皆は璃子と。」
「…瑠璃姫と区別するためか。」
「なんと…瑠璃姫様をご存知なのですか?!」
思いがけない鬼の回答に璃子は心底驚いた。瑠璃姫とは喜一郎の正妻、大奥方の名前。縁遠い離れた村から嫁いできた上に、十年も前に亡くなった身ゆえ、村人でさえ「大奥方様」としか口にはしていなかった。それを何故山に住み着く鬼の方が知っているのか…。
「…ただ知っているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。」
「そうですか…瑠璃姫様…お可哀相な方。伊國家にお嫁ぎになって数年で早世なさいました。その名の如く瑠璃石のようにお美しく、またお優しい方でした。ご存命のうちに十分にお世話致すことは叶いませんでしたが、小間使いの娘の私にその御名をくださって…それがあのように早くご嫡男と共にお亡くなりになるなんて…。もうすぐ瑠璃姫様の命日になります。この桔梗はその為のものなのです。」
「成る程…」
鬼はどこか苦々しげに意味深な一言を呟いた。その一言が何を意味するのかは分からないままだったが…。
「あの…貴方のお名前を伺っても?」
ややあって璃子は遠慮がちに尋ねた。鬼は遠くを見つめるように桔梗畑に佇む。先程と違い面の下の表情は全く掴めない。
「……セイ。」
風に紛れるような一言。
「セイ殿?」
「呼び捨てで構わない。」
「いいえ、殿方を呼び捨てに致すなど、はしたない事だと母が申しておりました。」
「…では好きに呼べ。」
「はい、有難うございます、セイ殿。」
璃子はそう言って丁寧に頭を下げた。その感覚が何故か懐かしい…ちょうど公三郎様に致すそれととてもよく似ている。何か大事な事を忘れているような…けれど何を思い出すでもない。
「…どうした?」
「あ、何でもございません。」
璃子は顔を上げて鬼を見た。鬼は未だその面を取る事がない。面の下でどのような表情をしていようと、璃子の目に映るのは黒い鬼の怒った顔。もちろん彼が怒ってなどいないことは声で判断がつこうとも、どんな顔なのか、どんな表情をしているのか、まったく掴むことが出来なかった。セイの言葉はその一言一言が、璃子に何かを考えさせる。それが璃子の中で即答されない事が、ひどくもどかしい。
セイと名乗った鬼は、そんな思考を働かせている璃子を尻目におもむろに屈みこむと、璃子と同じように丁寧に幾輪か桔梗を摘むとそれを手桶にそっと入れた。
「花はもう十分だろう。」
相変わらずくぐもった、しかし暖かみのある声。
「帰れ。じきに日が暮れる。」
「はい、セイ殿。また…お目にかかっても…?」
璃子は素直に返事をしながらも小さく尋ねた。
「ならぬ。少なくとも新月を迎える頃は山に立ち入ってはならぬ。分かったら即刻帰れ。」
それだけ冷たく言い放つと、セイは素早く踵を返し飛ぶが如く桔梗畑を後にした。その姿は重なり合う木々によって、小さくなるのを待たずに見えなくなっていった。鬼の摘んだ幾輪かの桔梗…鬼の邪気に当たった草花はたちまちに枯れるのだと聞いたことがあった。しかし桔梗は璃子が摘んだものと同じように、ただ手桶の中で僅かな風に揺れる。鬼のようでありながら、鬼とは全く異なる性質を持つ者…あの方は一体誰?
璃子は暫くセイの走っていった方向を見つめていたが、不意に冷たい追い風が吹き、小さく溜め息をつくと手桶を携えて伊國家へと歩き出した。桔梗畑から出て行くまでの間、璃子は何度もその方向を振り返った。何処に隠れていたのか、今更ながらオニヤンマが後を追う。
あの方の居場所が分かるなら、あの方の事を教えておくれ…
璃子は心で小さく願うと、母が心配している事を思って伊國家へと帰っていった。