どうか彼女が目覚めたら、さっき言っていたことがすべて譫言でありますように。
どれだけ長い間それを願続けていたのか、神に祈ること自体がひどく久しかったというのに。気がつけば辺りは既に夜の闇で、昼間と同じ火力の暖炉では些か肌寒さを感じるようになっていた。アンナは未だ瞳を閉じたまま目覚めない。時折乱れるその呼吸が、彼女の苦痛を示唆していた。
たとえ毒水のような私の血でも…
ああ…そんなことができようものか。いかなる血であろうと、たった一滴口にしただけで命を奪い取ってしまうのに。私のそもそもの間違いとは一体なんだったのだろう。私生児の私生児だったこと…いや違う、それにも関わらず神父になったこと…そうじゃない。あまりに死を身近に感じすぎて感覚が麻痺していたこと…きっとそうだ。たった一つ、皆平等な命がこんなにも重く散るものだというのに、私はただ枕元で綺麗事を並べていただけだった。その上この身となって何人もの人の命を奪っておきながら、今更同じ事を躊躇うなど愚かしいことこの上ない。いっそ地獄でいい…堕ちてしまいたい。生きていく事がこんなに辛いくらいなら。
「…先生…?」
絶望にうなだれていたダルクは、か弱い声に顔を上げた。アンナの目にはそれがどう映ったのだろう。もはや表情を変える体力もないのに、それでも僅かに驚きを見せてから微笑んだ。
「…目が覚めたのかい?」
「えぇ…良かったわ…」
まだ先生に伝えたいことがあったから、あのまま永遠の眠りについてしまうことがなくて。
「さっきはお困りにさせて…ごめんなさい…」
その言葉にダルクの胸はズキンと痛んだ。あぁ…いくら願っても神は私の望みを聞いては下さらない。再び目にしたアンナの表情は、眠る前と変わっていなかった。
「私ね……考えていたの…」
そんなダルクの意思を汲んでか、アンナは虚空を見つめて切り出した。
「私の残りの命なんて…もう消えてなくなるだけだと思っていたけど…まだ…役に立てるんだって…、先生のためになるんだって…」
「アンナ…やめてくれ…、私に君の命を奪えだなんて…」
ダルクは両手で顔を覆ってうなだれた。だがそんな彼に反して、アンナはふふふっと弱々しい小さな笑い声をたてた。
「そう…ご自分を卑下なさらないで、先生。私の命をお奪いになるのは…神様の方なのに…」
そして大きく咳込む。アンナの命の灯はゆらゆらと揺らめいて、今すぐにでも消えてしまいそうだった。だがそれでも口元には微笑みを…死を目前にしても尚、アンナはダルクを気遣ってやまなかった。
「先生、お願い…私の血を…お飲みになって…」
顔を隠す冷たい手に触れて、アンナは懇願した。目にいっぱいの涙を溜めた吸血鬼は、震える口元を律するばかりで何も言えなかった。アンナが今どれだけ苦しんでいるのかはよく分かる。今までそうやって残りの生を苦しむ人から、生命力を奪ってきたのだ。だが心が痛むのは、決まって事切れた姿を目にした時。その直前までは、おそらく無意識のうちに血に飢えていたのだろう。あれほど躊躇わずに吸血を繰り返していたなんて。しかしその過ちにもやっと気がついた、このはかない少女を前にして。それなのに何故手遅れなんだ…?!神父だ教戒師だといったところで、死からは誰をも救えない。そして今は慰めすらも口にできない…自分が無力で嫌になる。
「私のために…血をお飲みになって、先生…」
アンナはダルクの様子にもう一度願った。“私のために…”それを聞いて、ダルクがやってアンナに目を合わせる。
「…君の…ために…?」
「…えぇ…」
今更何のためだ…救えないことがアンナのためになるはずがない。
「先生は…今、お辛い…?」
アンナはとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。肯定も否定もせずにただ呆然としているダルクに、アンナは優しく微笑みかけた。お辛いでしょうね…こうして無力だと思いながら生きることに、さぞかし心を痛めてきたことでしょう。けれど…
「大丈夫…生きていく…辛さなら、きっと誰もが…乗り越えられるわ。…でも私はもう…生きていること自体が辛いの…」
呼吸ひとつ、瞬き一回が拷問のようにすら思えてしまう。生きていたい一方で、切に楽になりたいと願って止まない。
「人の寿命はコインのような…ものだから…」
アンナはポロポロと涙を零しながら、それでも言葉を止めなかった。
「私が苦しみながら使い切るより……誰かに渡して…上手に使ってもらう方が…いいでしょう?私がいなくなっても…私の命が息づいていくなら…、死んだことにはならないんだわ…」
それが外ならぬダルクの元でなんて、これ以上のことはない。神様は意地悪だとずっと思ってきたけれど、やはり感謝しなければならなかったんだわ。普通の人がこうして終わらせてしまうものを、託せる人に出会えたのだもの。
「…アンナ…」
“風の噂に、命を終わらせて下さるのだと聞きました”…あの日そう言われて断れぬまま、この少女に出会うことになった。最初からこうならざるを得ないことを知っていたはずなのに。
「…ね?先生…」
救いたい気持ちを常に持ちながら、いつも救われるばかりだ。今なら母の気持ちが分かる、なんと罪深いこの存在。
「……分かったよ、アンナ…」
ダルクは搾り出すように掠れた声で告げた。このまま何もできないでいるよりかは、せめて彼女の望むように…この苦しみから解放してあげられるように。医者でもない…神父でもない、愚かな吸血鬼にできることは一つだけ。ただその血を飲み、終わらせる。
ダルクは小さなナイフを取り出して、そっとアンナの手を取った。ためらいがちに当てられた切っ先から、じわりと血が滲んでくる。こうなってはもう心を無にして、何も思い出さずに、吸血を望むもう一人の隠れた自分になりきるのみ。涙ひとつ零してはならない、慈愛などカケラもない下劣な行為なのだから。
「…先生…」
血の滴る小さな手を口元に近づける途中で、アンナは不意に呼び止めた。
「ね、先生…もし先をお急ぎでないなら…、春までここにいて下さいな…」
アンナは死を目前にしているとは思えないほど、柔和な落ち着いた声で続ける。ダルクは無心にする途中で耳を傾けた。だが返答はできない、せっかくなりきったもう一人の自分…それはすぐに揺らいでしまうもの。ぐっと堪えるのが精一杯だった。
「…冬が終わって春になったら…プラムの花が咲きますわ…。そうしたら私…ひとひらの花びらとなって…先生の肩に…舞い降りるわ……ね…」
さようなら…
その言葉の直後にダルク唇がアンナの血に触れ、彼女はまるで寝入るように事切れた。未だ閉じた瞳に涙を滲ませたまま、口元は僅かに微笑んで、ダルクが今まで目にしていたどの表情よりも安らかに、アンナは旅立っていった。
「……アンナ…!」
その時奇しくも城の大時計が時を告げ、その音が鎮魂のように城内に響き渡った。まるで美しい人形のように横たわるアンナ…もう目覚めることはない。あれほど強く泣いてはならないと決めていたにもかかわらず、ダルクはただベッドサイドで、大粒の涙を流し続けた。