冬は嫌い。

 

お母様がそうおっしゃるようになったのは、いつの頃からだったかしら?

 

 

以前のお母様は、私が眠れぬ夜半の寝話によく季節の話をしてくださっていました。その時は私の方が冬を嫌いで、それを傍らのお母様に申し上げると、お母様は“冬もそう捨てたものではないですよ”とおっしゃいました。

「そうね、確かに冬の寒さには気が滅入ってしまうわね。でも…不思議なものなのよ。今はこんなに寒くて、もう二度と暖かくなんかならないと思えそうでも、ちゃんと季節は巡って春が来るの。また暖かくなる事を思えば、冬の寒さも有り難いものになるでしょう?もっとずっと春を好きになれるもの。」

だから冬も好き、そう微笑んだ寛大なお母様。今はそれを隠してしまう絶望の中にいらっしゃるんだわ。哀しみ溢れるお心に、冬の冷たい風がさぞお辛いのでしょう。

 

バン・ダルク先生もきっと、その冷え切ってしまったお体に冬の寒さは堪えているはずね。だから……

 

 

「…アンナ?」

名前を呼ばれて、アンナは混沌とした意識を現に呼び戻した。今はもう真冬の一番寒い時期、何とか年を越したとはいえ、アンナの病状はますます悪化するばかりであった。アンナは常に熱に苛まれている状態で、起き上がることも、窓の外を見ることさえ叶わぬものになっていた。ただいつもその傍にダルクが寄り添う。元々医者などではないのだ、手を施せるわけがない。ましてとうの昔に神父ですらなくなったのだ。今更何ができるものか…だがそれでもアンナから離れる気にはならなかった。死を目前にして尚ダルクを助けたいと言ってくれたように、ダルクも助けたかったのだ。いや、せめてその小さな耳に“助けたい”という言葉だけでも聞き入れて欲しい。

「先…生……?」

アンナのか弱い返事が返る。今はその一言だけでも辛いだろうに、それでもアンナは慈愛の表情を浮かべていた。

「…アンナ、無理をすることはない。ゆっくり休んで体を…」

「…先生は…冬が…お嫌い…?」

「冬?」

熱に浮かされているのか、唐突な問いに思わずダルクは聞き返した。直後にアンナは大きく二度ほど咳込んで、深くため息をつくと、トロンとしていた瞳を開き直した。

 

「…ねぇ?先生…」

そうしてその落ち窪んだ瞳をダルクに合わせる。

「…冬の話?」

ダルクが短く問うと、アンナは弱々しく微笑んだ。

「お母様はね…昔、よくお話しになったの。私が冬が嫌いだといえば…春が来るのだと、闇が怖いといえば夜は明けるのだと、雨が嫌だといえば必ず止むのだと…。でも……いつの頃からか、そんな言葉は無しに、ただ微笑みになるだけになったわ。おかしいわね……希望って必要な時ほど、突き放したくなるみたい…。壊れてしまうのが怖いのよ…。」

アンナは随分ゆっくりと言葉を紡いだ。相変わらず弱々しいにもかかわらず、その口元から微笑みは消えることはない。

 

「…お母様はきっと…逃げておいでなんだわ…」

「そんなことは…」

「いいえ…逃げていらっしゃるのよ。私を愛してくださるがゆえに……」

大丈夫、ちゃんと分かっている。何とかして絶望に触れさせまいとすることが、あの人の愛の形なのだ。そんな優しいけれど弱い人…だから今ここにいて欲しいと願っては、その言葉を飲み込み続けてきた。それならいっそ最期まで、その愛を貫かせて差し上げたい。

「…寂しいのかい?アンナ。」

「いいえ…だって先生が…いてくださるもの…」

そう、言葉なんて最初からいらなかったのよ。優しい嘘も、覚悟の真実もすべてを超越して、ダルクのようにただ傍にいて欲しかったのだ。思えば私も、諦める事なく我が儘を申し上げるべきだったんだわ。

「アンナ…」

軽く閉じられたアンナの瞳から、ポロポロと涙が溢れ出して来た。死を覚悟して沢山のものへの心残りを払拭してきたはずなのに、どうして最期の最期まで悔やむ心は尽きることを知らないのだろう。死ねば神様の御許に召されるなんて、ただの慰めに過ぎないわ。だってまだこんなにも生きていたいのに。

 

「…ね、先生…」

アンナは悲愴な心持ちを何とか押さえ込んで、再び開いた瞳をダルクに合わせた。

「白く汚れた血でも…先生のためにはなるのかしら…?」

「…え?」

「お医者様がね…おっしゃったの。私の血は…もう白く汚れて、体を巡っていること自体が毒なんですって。こんな毒水は…先生のお口には合わないかしら…?」

「アンナ…何を言ってるんだ…?」

しかしダルクの言葉を無視するように、アンナは静かに両の目の涙を拭った。

「こんな血では…まずくて飲めない?それともお飲みになったら、同じ病に冒されてしまうの?」

「…それは…」

ダルクはそれ以上をすぐに口にすることはできなかった。彼女が今求めているのが優しい嘘ではないことはわかっている、けれど真実を言うには忍びない。以前話したように、ダルクにとって吸血とは生命力を移し替える形式的なものに過ぎない。血の味を感じていようと、美味い・まずいを判別するようなことはなく、生命力と共に病もろともうつることはなかった。いや、よしんば病をももらったところで不老不死の身。神に許される以外に死ねる術など最初からないのだ。

「……ごめんなさい、先生…」

貴方を戸惑わせるような事を言って。けれど分かって……

 

そうしてアンナは瞳を閉じた。ダルクの沈黙の前に、彼女の意識は再び闇の中へと落ちていった。

 

 

 

     

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