そこは夜を好むようになった私でも、暖かい日差しの下で寝転んでいたいと思わせる場所だった。小高い丘からは遠くに海が見え、背後には背の低い木々が茂り、花がそこここに咲き乱れていた。小鳥の囀りはさながら心地よい音楽のようで、頬を撫でる風は誰の心も癒した。なんと安寧な土地、空がどこまでも青い。
ここは一体どこだ…?
私はその答えを模索するように辺りを歩き回り、やがてある家の前で不意に足が止まった。その家はとんでもなく古い廃屋で、ここ数年来誰も住んでいないことが簡単に見て取れた。それは一角を軽く押しただけで全体が傾いでしまうほどに頼りなく、また中に家財道具が残されているわけでもなく、他の誰であろうと意味のないもののように思われた。だが何故か気にかかる、胸が強く締め付けられるような何とも言えない思いが胸中に充満する。誰かが遺した思いがあるなら、一体何を訴えているのか…何故私の足を止めるのか。私はただ家を見つめていた。
「おや…?あんた、誰だい?」
ふと中年の女性の声が耳に入る。長居しすぎたか…早く立ち去らなければ。しかし無視するような私の態度を何も気にせず、女性は言葉を続けた。
「もしかして…バン・ダルクさんじゃないのかい?」
「…?!…いや、私は…」
期せずして女性に名を当てられ、私はひどく動揺した心を抑えて否定しようとした。だがそれをも女性は聞き入れていないようで、勝手に「やっぱり目元がそっくりだよ」と言い切った。
「あんたのお母さんに。」
「?!」
私は遠ざかろうと動かした足を止めざるを得なかった。
「母を…母をご存知なのですか?!」
今の今までこの女性に関わりたくないと思っていたことすら忘れ、私は思わず問い返した。姉さえも“よく知らない”と言っていた両親の、何を彼女は知っているのだろうか。
「あぁ…ちょうどこの家に住んでいたのさ。尤もそう長くなく亡くなっちまったがね。そうだ、預かりものがあるんだよ。まさかこうして会えるとはね。待ってて。」
女性は早口にそう言うと、言葉の途中から早くも踵を返し始めていた。
幼い頃、両親のことを知りたいと思ったことはなかった。それは姉が両親そのものであったし、知る必要もなかったからだ。だが今は違う、こんな体になった原因を探るには、両親のことを知りたくなっていた。その一端を思いがけず掴んだのだ。手放すわけにはいかない。
「ほら、これだよ。」
ややあって女性が戻って来て、私にそれを差し出した。それは一枚の紙切れ、古く茶ばんでボロボロの私宛の手紙であった。
愛しいジャン
今頃どうしているのでしょうか?
私は貴方に何も告げぬまま、あのような形で手放してしまったことを、ひどく後悔しています。
何故貴方が生まれてからずっと、貴方のいうことに耳を傾けて信じてあげられなかったのでしょう。
その報いが、こうして死に目に会えないことで返ってきたのだと思います。
けれどそれは決して貴方のせいではありません。
ただ偏に隠し続けてきた私がため。
こんなに罪を重ねて、私は死んでも天に召されることはないでしょう。
せめてもの償いに全てをここに記します。
ジャン、実は貴方は私と貴族の主人の間に生まれた子…つまり私生児なのです。
身分の低い私ではあったけれど、主人は私を愛してくださり、そして貴方を身篭りました。
しかし主人には既に伴侶となる方がいらしたのです。
不義の子…それは神のご意志に反するもの。
それを知っていて尚貴方を失いたくなく、堕ろすように言われていたことにも逆らって貴方を生んだのです。
それでも貴方には真実を言えなかった。
だから両親のことは伏せて、貴方を私の弟だと言い続けました。
尤も…私も独り身の叔母に育てられて母を知らぬ故、最初から母になることなどできなかったのでしょう。
私はきっと心のどこかでそう思い続けて、自分に甘えていたのです。
母と名乗り出るくらい、簡単に出来たはずなのに。
あぁ…どうかこの罪深い私を許して、ジャン。
神に許されるよりも何よりも、私は貴方に許されたいのです。
そしてどうか貴方だけは神に許されて、その御許に召されますように。
今はただあてもなく預けていくこの手紙が、貴方の目に触れることを望みます。
愛を込めて。
ハイネ・ティア・バン・ダルク
生前か弱かった彼女をそのままに映し出す、震えるような文字の手紙。私は何度もそれを読み返して、やっと自らが背負った罪の正体を知ったのだった。
「…おそらくは姉も…いや、母もまったく同じ境遇だったのだろう。」
長い昔の話を、ダルクはそんな言葉で締め括った。
「先生のお母様も、ご存知ではなかったのね。」
まさか自らも私生児であったとは。独り身の叔母が自分の母親であったとは知らないままに、ダルクを身篭り産んだのだ。私生児の産んだ私生児…神の意志に反するもの。あれほど息子だけは許されて欲しいと願ったのに、結局罰を受けることになったのはダルクだったのだ。その思いは筆舌しがたい。真実がどうあれ愛されて生まれ育ったのに、それをもお許しにならないとは、神は…宗教は何のためにあるというのか。
「…あれほど神父として…教戒師として沢山の人の許しを請いていたのに、最も許されざる存在だったのは私だった。」
それから200年…気が遠くなるほどの年月を、たった独りで過ごしてきた。今はもうそれに慣れてしまって、夜を好むことも血の味も、この冷たい体さえ気に留めることではなくなった。ただ目の前で人が死ぬことにだけ、この心が締め付けられる。自らが生きるために、辺りに死を撒き散らす…愚かで罪深いこの存在。
「いいえ、きっとそうじゃないのよ。」
ダルクの意思全てを請け負うようにアンナは切り出した。
「神様は貴方にもっと沢山の人を救って欲しかったのよ。だからこの世にお返しになったんだわ。」
「…そんなはずはないよ。」
「そう思いましょうよ。」
アンナは固く組まれたダルクの両手にそっと触れた。相変わらずひやりとしたその冷たさの原因を知ってなお、アンナは少しも物怖じすることはなかった。いや…むしろ知ったからこそ、今まで以上に優しく触れることができたのだ。
「だって先生は、もうずっと沢山の人の苦しみを終わらせてきたのでしょう?あの御祖母様もみんな、先生に感謝なさっていたわ。そうやってお救いになっていたことに変わりはないもの。」
「しかし…それで人は死ぬんだよ。」
それでいいはずがない、それが許されるはずがない。
「ね、先生。私“優しさ”というは一つの形に収まるものではないと思うの。」
アンナは俯くダルクから一度も目を逸らさずに言葉を続けた。
「お母様が私に治るとおっしゃるのも、私がお母様に大丈夫と申し上げるのも、本当はとてもいけないことだわ。だってどちらも嘘なんだもの。けれど…罪ではないでしょう?悪意をもった嘘ではないもの、ただ優しいだけ。先生も一緒なのよ。悪意があって血をお飲みになっているのではなくて、ただ優しくお見送りになっているだけだもの。誰も先生を恨んでなんかいないのに、罪になるわけがないんだわ。…ね?」
「…アンナ」
「先生が罪だとお思いになるのは、偏に許されたいと願っていらっしゃるからだわ。でも罪悪感は罪ではないと思うの。それでも罰が必要だとおっしゃるなら、その御心を痛め続けたことでもう十分なのではないかしら?」
誰であれ生きていくなら皆同じ、人が食物を口にする限り、誰も犠牲を払わずして生きてなどいけない。無意識に死を撒き散らしてのうのうと生きる人達より、命の重さを知って生きるダルクの方がずっと慈悲深いはずなのに。
「…そう…なのだろうか?」
ダルクばかりが罪の意識に苛まれて、自分を許し得ないでいる。
「そう思いましょうよ。」
アンナはもう一度強く請け負った。冷たい手をぎゅっと握りしめて、その鮮やかな紅い瞳の奥を見つめた。私が貴方の罪を洗い流して、貴方がご自分を許せたなら、いつか神様も根負けなさる日がきっと来るわ。
「ほら…今日もこんなにいいお天気。」
吸血鬼は太陽に弱いというけれど、こうして窓から見上げる空に二人は鐘の音の鎮魂を祈っていた。