頼るあても行く先もなく、私はとにかく顔見知りから逃げるように歩き続けた。昼間にも移動はしていたが、その内に夜の方が体が楽だということに気が付いて、専ら辛い道程は真夜中に行動していた。数日歩き続けているというのに、不思議と空腹を感じない。いや、どこか満たされない感覚は確かにあったが、それが食欲で紛れるものでないことを知っていたのだ。自分は死んだ…それを再認識させるものは、冷たく白いこの体と食事を全く摂らなくても何も感じないことだった。一体私はどうなったのだ…生きているはずもないのに、死んでもいない。主はその昔、一度復活を遂げたのだと教えられて来た。だが私と主が恐れ多くも同一であるはずがない。卑しくも死に切れぬ者、アンデッド。所詮今の私はそれでしかない。

「喉が…カラカラだ…」

私は夜の山道を行く途中で、目覚めてから初めて飲食を欲した。何も食べなくとも確かに体は動いたが、それでも弱ってきたのは感じていた。水…いや、水が欲しいのではない。そんなもの湖いっぱい飲んだとて、この喉は潤せない。それならば禁じられた術によって作り出されるという赤きエリクシルのように、密度の高い液体をグラス一杯…たった一滴だけ、それで構わないのに。

 

「…誰です?」

私はふと森の中から聞こえて来た荒い息遣いに声をかけたが、即座にそれが不要のものであったと気がついた。これは獣の息遣いだ、それも大分弱っている。しかしこれも何かの縁かもしれないと、私は息遣いの方へ森を分け入った。

「君か…」

ややあって私は座り込んだまま動けぬ鹿に遭遇した。まだ大人になりきれていない小柄な体、独特の斑点が薄らいでいる。猟師に追われたか、腹部に負った傷によって胴体は赤く染まっていた。可哀相だが助かるまい…私は直感的にそう思った。そしてかつての真似事のように、死に瀕したものに寄り添って教戒しようと試みた。こんな体になって尚、依り処は以前と何も変わってはいなかった。私はこの時、まだ自分の真の立場を知らないままに、こうして教戒を続けていれば自らの罪もあがなえると思っていたのだ。

「安心おし。」

目の前の震える鹿に、私は優しく呼び掛けた。言葉が通じるはずもない、けれど何かしら伝わるものもあろうかと、私はそっと手を差し延べた。だがその指先に血に濡れた独特の感触を捉えると、私はふっと自分が何者なのか分からなくなってしまった。その上、自分が何をしようとしているのかすらも分からなくなり、いつの間にか無意識に体を預けていた。そうして不意に唇に生暖かいものを感じると、あれほど渇きに喘いでいた体が急に楽になり、目の前の鹿がガクリと息絶えていた。

 

私は一体何をした…?

 

鮮血に濡れた唇、軽くなった体、事切れた鹿。信じたくなどなかった、しかし今まさに自分が吸血したのだと分かってしまった。確かに鹿は死にそうではあったけれど、あまりに不自然すぎる唐突な死に方に、私は血と一緒に命をも吸い取ってしまったのだと同時に知った。死からの復活…こうして生きながらえていること、生きているとは思えぬほど冷たい体、夜を好むようになったこと。悔しいくらいにつじつまが合っている。私は単なる死に切れぬ者ではなかったのだ。自分が吸血鬼に成り下がったのだと知った夜、私は鹿の死骸の傍らで一晩泣いた。

 

 

 

 

一度吸血を覚えた体は、事あるごとに血を欲した。私が吸血したところでその相手が同じく吸血鬼になることはなかったが、それでも吸血行為が相手を死にいたらしめることに変わりはない。既に命の絶えた私には生命力が必要だったのだ。吸血こそが私に命をもたらす…相手の生命力をすべて私に移すことで。私は理性で血への渇望を押さえ込み、ギリギリになるまで吸血に走らないようにはしていたが、人が水を必要とするようにどうしても私から血を切り離すことはできなかった。だが相手を殺すことを承知で吸血できようはずもない。そこで私は死を待つばかりで苦しむ人々から、少しずつ生命力を頂戴することにした。幸いだったのは、長く教戒師として死に際に携わってきたことで、人の残りの寿命を計れることであった。まだまだ活力さえあれば生きられる人と、もう永くない人と。教戒をすることはなかったが、それでも我が身は常に死の側にあった。生きる苦しみから解き放たれると、人々は目に涙を浮かべたが、私一人がいつも救われぬ心を抱えるばかりだった。

 

恨んでください、いっそのこと。あなたが死ぬ代わりに私が生き続けるのだから…

 

 

私はひたすら放浪し続けた。不老不死の身でひとところには居座れない。誰にも自分を覚えられたくなく、記憶に残らないように努めた。あちこち転々としていれば、私をどこの誰かと追求することもあるまいし、その上様々な文献を辿ることもできる。この身、なにゆえ吸血を求めるようになったのか…その真意を突き止めたかった。或いは病気を治すように、元に戻る方法があるかもしれない。ある文献では吸血鬼には二つのタイプがあるのだと記されていた。生まれながらに吸血を好む種族である者と、死後に復活して生きるために吸血を必要とする者。私は間違いなく後者だ。死して尚罪をあがないきれず、神に招かれなかったということか。生前、宗教的な禁忌を犯した者が、神に疎まれ罰として復活させられる。だが仮にも神父として生きてきた私が、何か禁忌を犯したとは考えづらい…そう思いたい。考え得る禁忌…“洗礼を受けていない”“神に呪われた者”“私生児が産んだ私生児”…、或いは“夜中に明かりを点さず糸を紡いだ”だとか“日没時に塵や埃を太陽に向かって掃き出した”というような民間信仰上の禁忌だろうか。だがどれも身に覚えがない。両親にしたって、顔を知らずともいたのだと姉は言っていた。もっと違う別の原因があるのか…。私は人目を避ける以上に、その答えを追い求めるようになっていた。そしてその思いがいつの間にか、我が身をある場所へ導いていたのである。

 

 

     

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