今から200年前、私は死んだ。
私は最初、自分が疲れの果てに長く眠りすぎて、ようやく目が覚めたのだと思った。しかし余りに窮屈で辺りをくすぐられるような感覚に、私はまだウトウトとしていた意識に鞭打って起き上がった。まだ蓋も閉じられていない棺の中、それが私の居場所だった。
「何故…一体何が…?」
誰かの悪ふざけなのだろうか。いや、こんな何でもない日に悪戯に興じるほど村人も愚かではない。ましてこの神の御許、村で唯一の教会において、悪戯にしては度が過ぎている。しかし記憶は靄がかかったように不鮮明で、一体何の因果があってこのような事になっているのか全く分からなかった。
「…痛っ…!」
不意に私は頭に激痛を感じて思わず両手を添えた。覚えがある…この痛み、眠りにつく直前にも確かに感じた。それに改めて見た自分のあまりに白い手、感じる冷たさ。到底生きている人間のものとは思えない。一体何が起きている?何も分からない、何も…
その時部屋の外に誰かが近づいてくる音が聞こえ、私は咄嗟に棺に元の通りに横たわった。間もなくして慣れ親しんだシスターの手が私の頬に触れるのを感じ、“どうぞ安らかに神の御許へ…”と震えるような彼女の哀悼の言葉を耳にした。そして棺の蓋はしっかりと閉じられて目の前が真っ暗になり、シスターが誰かに呼ばれて部屋を立ち去る音に耳をそばだてた。私は果たして死んだのか?!しかし私は今こうして目覚めている、夢などではない。神の御許に行かなかったのだろうか…それとも行けなかった…?神父として過ごしてきたにもかかわらず、神の怒りに触れたのか。私は急に怖くなって棺から跳び起きて、あたかも未だ私の体が棺の中にあるように仕立てると、ひっそりと教会を…村を後にした。棺はそのまま埋葬されたろう。私が今もこうして永らえていることは、村の誰しも分かるまい。
私は貧しい家の生まれだった…と聞かされていた。唯一の身内は歳の離れた姉のハイネだけで、物心がついた時にはさる貴族の豪邸で奉仕する立場にあった。両親の顔は知らない。姉は両親は早世したのだと一点張りで、多くを話そうとはしなかった。私は幼心に余程のことがあったのだろうと感じて、極力尋ねないように努めた。形見は何一つなかった。
「ジャン…」
私の名を呼ぶ姉の声は、とても美しく慈愛に満ちていて心地良かったのを覚えている。体があまり丈夫な方ではなく、同じ年頃の他の女中たちほどには働けなかったが、家の主人が何かと目をかけていたせいか、そのことで姉が表向き咎められることはなかった。だがその代わりに奥方が非常に冷たく、姉と私は主人の目の届かないところで何かと苦汁を舐めていたことも確かだった。その度に姉が私だけでも助けようとしたことや、その美しい頬を涙が伝った光景は、200年経った今も忘れはしない。優しくはかなかった姉・ハイネ。15歳年上の彼女は間違いなく親代わりだった。時には叱り、時には私を後押ししてくれた。姉が微笑みかけてくれると、私の顔も綻んだ。両親のことと同じくらい姉は自分の事を話したがらず、その笑みは時々私の言葉を遮る楯のようでもあった。今にしてみれば彼女
は大変な秘密主義者で、あれほど慕っていた姉の事をほとんど知らないままだったことが未だに悔やまれる。あの時聞いていれば救われるものは多かったろうに。いや、姉にとってはその方が良かったのかもしれない。彼女は何とか神の御許に行けただろう。今頃中々神の御許にやって来ない私を見て真実を知ってしまっただろうか、それは分からない。
「ジャン…あぁ、ジャン。どうか思い直して頂戴な。」
私が13歳になったばかりの春に、姉は初めて私の申し出を否認した。それは寂しがり屋の姉が私を手放したくないという以上の否定ぶりだったが、当時の私は愚かにもただそうなのだとしか思わなかった。顔も知らない両親への慰みに、そして少しでも姉への負担を減らすために、私は修道院に入っていずれ神父になると決意した、そんな花の咲き乱れる頃のこと。姉は首を横に振り続けた。
「何故なのです、姉様。これが今生の別れというわけではありません。何年かして立派に神父になって、必ず戻って参ります。それまでの辛抱ではありませんか?!」
「いいえ…いいえ!ジャン、違うのです。あなたになりたいものがあるなら、私はその背を精一杯押したいくらいです。けれど…」
「…何ですか?おっしゃってください。」
しかし姉は“それ以上は言えない”と口を紡ぐばかりであった。まるで何かに怯えるように、奥方に対するそれよりもずっとひどく姉は肩を震わせていた。
「ここにいてください、後生です。今あなたをこんな風に手放して、これ以上罪を重ねるのが怖いのです。ここであなたを許しては、神の反感を買ってしまいます。どうか…ジャン、お願いよ…!」
「姉様…」
私は姉に縋り付かれ、その場で肯定することも否定することもできなくなった。しかしこの時の姉の言葉は逆に私の決意を強めることとなり、主人に懇願して許しを得ると、そのまま荷物をまとめて屋敷を後にした。姉に何も告げず、顔も見ないで家を出たことは今もずっと後悔している。姉とはこれが今生の別れとなった。
それから数年が経って、私はある小さな村の神父として教会に努めていた。姉を裏切るようにして出てきた負い目もあって、私は異例の早さで修行を済ませ、そのまま近くの教会に配属されたのだ。あの春の日に姉がしきりに神の許しを請いていたことが忘れられず、私は教戒師としての道を歩んでいた。教会を訪れてくる人々の話を聞き、死の間際の人のベッドサイドに寄り添ってはその罪をあがなった。そうしていつしか遠方からも人が尋ねてくるようにはなったが、それでもあと少し…もっと立派になってからと体面を追求するあまり、神父になってから10年経って尚姉には会いに行けなかった。本当は恐ろしかったのだろう、姉が私を許さないのではないのかと、もっと立派な神父になっていないと姉が認めてくれないのではなかろうかと、会わずにいた期間が私の中に有りもしない姉の虚像を作り出していた。あの姉が私が無断で出ていったことを叱っても、修行に励んだことをないがしろにするはずがないのに。優しく慈愛に満ちた姉の笑顔が、いつの間にか私の中から消えていることに気がつかないままだった。
そしてその日はとうとうやってきた。
「バン・ダルク神父、何かお疲れではありませんか?顔色があまり優れないようですが…」
同じ教会に仕えていたシスターのミシェルが、私を気遣うように顔を覗き込む。
「そうかい?」
私はステンドグラスに映った自分の姿を確認した。無論ミシェルの言葉を疑っていたのだ。鮮やかなガラスに映った姿で顔色を確かめられるわけがない。確かにこのところ多忙ではあった。休日はミサに、珍しく続いた冠婚葬祭と、夜は連日教戒に努めた。食事は不規則であったし、睡眠時間も不十分といえば頷ける。しかしそれほど疲れているとは感じていなかった。精神的な糸を張り詰めていたおかげだろう。今はそれが仇だったと素直に思える。
「少しお休みになってください。皆、この辺りの人々はバン・ダルク神父が頼りなのですから…」
「ははは…私はそれほど大した人間ではないよ。それにもうすぐ教戒に訪れる方がいる。大丈夫、心配ないよ。それが終わったら君の言う通り休むから。」
私はそう言って別室へと入っていった。葬送のために着込んだ重い服を着替えようと、ボタンに手をかけて脱いだ上着を椅子の背もたれに投げかけた。そして小さく溜め息を…、確かにミシェルの言った通りだ。大分疲れが溜まっている、独りになると途端にそれを実感する。姉のことがあるからか、それとも別の何かがあってか、自分が生き急いでいるのは知ってるさ。だがそれで人々が救われるなら本望だ。
「…痛…っ」
不意にひどい頭痛が走った。なんという激痛だ、ブチブチと何かが引きちぎれる嫌な音が響いて目眩に襲われた。風邪でも引いたのだろうか、いやしかしこの痛みは尋常ではない、立っていられない。この後の教戒までは今少し時間がある。このまま倒れ込んで…少し……ほんの少しだけ…眠り…に……
…そして私は死んだのだ。あの頭痛と嫌な音が死の原因なのだろう。その時のことはまったく覚えていない。ただ感覚的に深い闇へと落ちて行ったことは分かっている。何も見えず、何も聞こえない。体がやけに重くて、何を胸中に抱いていたかも知れない。そうしていい暫く暗闇をさ迷い、何の前触れもなく不意に意識が戻ってきた。
こうして話は最初に戻るのである。