「今日は少し顔色がよろしいみたいだわ。」
アンナはダルクの顔を見遣って言った。ダルクが「君が?」と聞いたので、ダルクの方だとアンナが答えると、彼は自嘲的に「気のせいだ」と突っぱねた。
「あら、でも私は先生の顔色が良いことにしておくわ。具合は良く見えるにこしたことはないもの。」
「…そうだね。では私も君の顔色がいつもより良く見えることにしておこう。」
ダルクはむしろ昨日よりも若干青ざめているアンナにそう言った。病は気から、優しい嘘が体調を変えることもあろうかと。
「今日もいいお天気ね。」
アンナはそう呟いて、窓の外に目線をやった。心に蟠りがある故か、ダルクの全てに疑念を抱く自分を今一度隠したかった。しかしその目に教会の尖塔に据えられた十字架が小さく映る。脳裏には夢で見た光景が蘇ってくる。糸が切れた操り人形のようにガックリと逝った老婆と、そこに添うように座っていたダルク。思えばダルクの顔色が良く見えたのも、今日に限った話ではなかった。体は未だ冷たいままでも蘇ったように鮮やかな瞳、連日響いた葬送の鐘。事実を繋げたいわけではないのに、泣きたくなるほどにつじつまは重なり合っていく。今更あの全てを夢だったと思い込むにも無理がある。いっそこの手を切って確かめてしまいたい。
そんな風に考えて伏せたアンナの目に、逆のベッドサイドに置かれた一輪挿しが飛び込んできた。ガラスでできた小さな花瓶…そうだ、いっそのこと…
カシャン…ッ
アンナはダルクに気付かれないように、ちょっとした目眩を装って一輪挿しを倒して割った。
「あ…しまったわ…」
「…大丈夫かい?」
そう言ってスッと立ち上がったダルクより早く、アンナは破片を片付けるようにしながら、その鋭い一片を指に押し当てた。か細い指先はあまりにも簡単に切れて、血がじわりと滲み出てきた。
「いけない…先生、手当てをしてくださらない?」
アンナは少し意地悪に指先が赤く染まった右手を差し出した。途端にダルクは何かに怯えるように体の動きを止める。鮮やかに紅い瞳孔は少し開きがちになり、噛み締めた唇は震えを律しているかのようだった。明らかにいつもとは様子が違う、アンナの指先の血にダルクの手はカタカタと震えていた。
「先生、私の血…病気になってからうまく止まらないの。お医者様でなくても包帯を巻くことはできるでしょう?」
「…あ、あぁ…」
ダルクは目線を泳がせながら、アンナが指し示した小さな木箱から包帯を取り出した。
「さ、先生。」
アンナはじっと彼から目を離さずに右手を更に前へと差し出す。ダルクの額にはもはや冷や汗が滲んでいた。血に怯えているのか、その冷たい手は何とかしてアンナの血に触れないようにとしていた。いつも憂いを帯びたダルク、時折美しい笑みを垣間見せたダルク、それが今は恐怖におののいている。
「…ごめんなさい、先生。」
手が触れ合う直前で、先に根負けしたのはアンナの方だった。アンナは左手でダルクの持っていた包帯を手にとると、呆然としているダルクの代わりに自分で指先に巻いた。少し強めに、止血も兼ねて。
「…ごめんなさい。」
それが終わるとアンナはもう一度呟いた。
「…な、何が…?」
「貴方を試すような事をして。」
そう言ってアンナは再びダルクを見遣った。その美しい瞳の端が微かに震えていた。
「……見ていたんだね…」
そんなアンナに、ダルクは蚊の鳴くような声で囁いた。そしてそのままベッドサイドの椅子に再び腰掛ける。
「やはり…あれは夢ではなかったの?けれど私…もうあんなに歩けはしないのに…」
「…おそらく君の魂が体を離れていたのだろう。現実と夢の境をさ迷うように…」
それでアンナはハッとした。まるで透けていくように見えた家の壁、あれは壁が消えていったのではなく、アンナ自身が壁を擦り抜けたのだと。
「…先生、もう一度伺ってもいいかしら?貴方は一体……どなたなの?」
それっきり部屋は沈黙に包まれた。余韻を残していた鐘の響きも今はすっかり消えうせて、風が窓を叩く微かな音だけが耳に入っていた。
「…それは…言えない。話せば君に罪を負わせることになる。」
「いいえ、私先生の罪を被ることにはなりません。」
アンナは語尾を強めて言い切った。
「私は罪を負うのでも問うのでもなく、許して差し上げたいの。神様の真似事とおっしゃっても構わないわ。でも神様が貴方をお許しにならないのなら、私がその荷を下ろして差し上げたい…そう思うの。」
「…アンナ…」
「誰かに知られたり聞かれることをご心配なら安心なさって。私このまま胸に秘めて、神様にさえ申し上げないわ。」
そう言ってアンナはクスクスと悪戯に微笑んだ。今までダルクが誰にも話せずに苦しんできたのなら、それを解放することで何か変わるかもしれない。けれど…これ以上の無理強いはできない。あとはダルク自身に任せるだけ。
「……世に言う吸血鬼には、二つのタイプがあるのを知っているかい?」
ややあってから唐突にダルクは尋ねた。
「二つ…?」
「そう…一つには生まれながらに吸血を好む種族、そしてもう一つには死後復活して吸血をしなければ生きられない者。……私はその後者だ。」
ダルクは長く垂らした前髪の向こうから、アンナの目をじっと見つめた。その揺るがない目線が何よりの証、けれど…
「けれど昨日の事が本当なら、先生は血をお飲みになってはいないわ。ただ…そう、ただ口を付けただけ、そうでしょう?」
「…そうだね。たが私にとって吸血行為は、単なる形式的なものに過ぎないんだ。その人の命を吸い取って自分の寿命に変える…そのための儀礼のようなものさ。」
合わせた目が自嘲的に揺らめく。誰よりも吸血を嫌がっているダルクが、誰よりも血を必要としている。しかも他人の命を代償にして。
「何故…だって先生は神父様だったのでしょう?」
最も許されるべき存在であったはずなのに。
「…君の体調が許すなら、少し昔の話をしようか。」
ダルクはそう呟くと、今一度椅子に前屈み気味に座り直し、声を潜ませるようにして話し始めた。