ねぇ先生、誰にも許されざる罪はあるものなのよ。どんな人でも…たとえそれが神様でさえ、罪を犯さずに生きていくことなどできやしないわ。けれど、罪は許されるためにあるものだと思うのよ。だって自分の行いを許されたいと思うから、それで初めて罪悪感が生まれるのだもの。きっと優しい人ほど沢山の罪を背負ってしまうのでしょうね、先生のように。
でも大丈夫。罪を許してくださる方が必ずいるわ。
罪は許されるためにあるのだから。
…そう考えながら眠りについた夜、アンナは不思議な夢を見た。いや、果たして夢…だったのだろうか?裸足の足に感じる地面も、髪を揺らす風も、肌に少し冷たく感じる空気も、何もかもがリアリティに溢れていて、まるで本当に月明かりの下を歩いているように感じられた。けれどそれが現実であるはずがない。こんな真夜中に城を抜け出すなどということは到底不可能だし、何よりこれほど軽快に足が動くはずがないのだ。フワフワとあたかも体が浮き上がるほどに、アンナは悠然と歩を進めていた。あぁ…なんて心地よい。小さな子供の頃に新しい靴を履いた時のよう、どこまでも行けそうな軽い足取り。私は風になったのかしら?柔らかい寝巻の裾は、重力の影響を何一つ受けていないようにフンワリと弾む。いつも苛まれている熱も怠さも感じない。夢なら朝まで醒めないで欲しい。
「あら…?」
アンナは闇夜に一点、月明かりを集めている場所に目を留めた。城下町の一角の古い家、見ているほどに家の外壁が透けていき中の様子が見えてくる。こうなってはいよいよ夢ね、それなら中を垣間見ても差し支えないでしょう。アンナは立ち止まって、段々と鮮明になっていく様子を凝視した。そこに浮かんできたのは二つの人影、ベッドに起き上がっているのが一つと、その傍らで椅子に前屈みに腰掛けているもう一つ。
…先生…?
アンナはそのもう一つを捉えてハッとした。椅子に座って相変わらず憂いの空気を纏った、見間違うはずのないその姿。ダルクが傍らの老婆に話し掛けるところであった。
「貴女はもう永くない。」
ダルクの非情な言葉に、老婆は静かに頷く。アンナは瞬きをすることも忘れて、耳をこれ以上ないほどにそばだてて、目の前の二人の様子を見つめていた。
「もし……なら、私が…を被り…う。」
突然ダルクの声は何か靄がかかったかのように途切れ途切れになり、どれほど聞き耳を立てても正確には聞こえなくなった。これほど雄弁に話す姿は初めて見た。何を話しているか知りたいのに。
「その代わりに、貴女の………さい。たった一滴だけ……、それで……は……れる。」
老婆はもう一度頷く。
「……はありませんか?」
今度は首を横に振った。そしてその目から涙が零れた。安堵の喜びに流れる涙、老婆は胸で十字をきる。
「…恨んでください、私の事は。貴女の代わりに私が生きる。」
老婆は再び首を横に振って、ベッドサイドから小さなナイフを取り出すと、自らの手の平に刃先を当てた。ダルクが優しくその手をとり、鮮血流れる老婆の手の平に唇を当てると、途端に老婆は糸が切れた人形のようにガクッと事切れた。
「バン・ダルク先生…?!」
アンナが思わずダルクの名を呼ぶと、彼にもその声が届いたか、ハッとするように顔を上げた。少し紅く染まった口元、長い前髪の下の瞳が金髪ごしに確認できる。驚愕に見開かれた瞳が、動揺と焦躁とをのぞかせる。アンナは二の句を必死に頭の中で探したが、中途半端に開いた口からは言葉は一つとして発せられなかった。そしてそのまま互いを見つめ続けていたが、やがてアンナの意識の方がもたなくなり、深い闇に堕ちていくようにアンナは夢から切り離された。
「…っ!?」
アンナは体をびくつかせるようにして目覚めた。僅かな寝汗と上がった息…あの夢を離れてからどのくらい経っているのだろう。真夜中を見た夢、今は朝。あれからずっと息が詰まっていたかのように思えた。
「お嬢様、いかがなさいました?!」
アンナの尋常ならざる様子に、ちょうど部屋にいた使用人が慌てて尋ねた。
「あ…大丈夫よ、ノーラ。ごめんなさい、ただ夢を…夢を見ていたの。」
ふーっと息を吐きながら、アンナは額に手を当てた。呼吸が落ち着いて来ていても、未だ動悸が激しい。何とも忘れ難い夢。
「…バン・ダルク先生はいらしてるの?」
「いいえ、まだお見えになっていません。ですが、そろそろお越しになる頃かと。」
「今朝はまた…城下でどなたか亡くなった?」
「え?いえ、そのようなお話は…」
しかしノーラの言葉を遮るように、教会の鐘がまた鳴った。この哀しい旋律は間違うことなき葬送曲。ノーラは思わず“しまった”と言いたげな反応を示した。
「知っていたのね。」
「…も、申し訳ありません、お嬢様。」
「いいのよ、ノーラ。」
きっとお母様のご配慮なのでしょう。いずれ自分のための鐘が鳴ることに、触れさせたくないというお考えなのだ。けれどこの辺境の地で、あの鐘の音を遮るものなどない。いやがおうにも耳に届く。だからお母様のご配慮に、鐘の音がさも聞こえていないように振る舞ってきた。私がたとえ平気でも、お答えになるお母様のお辛さは尋常ではないでしょう。互いに口を紡ぐ…沈黙こそが優しさだった。けれど…
「どなたがお亡くなりになったの?ノーラ、あなたはご存知?」
「い、いいえ…!いえ、私は何も…」
「私の事なら気にしないで。ねぇ、もしかして…亡くなったのは病床のご老人、どこかの家の御祖母様でないかしら?」
「そ、それは……っ?!」
ノーラはアンナの鋭い追求と、それと同時に響いた扉のノックに驚いて、思わず言葉を失った。
「どうぞ。」
アンナはまるで今の今まで何事もなく穏やかであったかのように、落ち着き払った声で扉の向こうを誘った。
「…邪魔するよ、アンナ。」
「おはようございます、バン・ダルク先生。」
いつもと変わらずどこか憂いを帯びて現れたダルクに、アンナもいつもと変わらぬ笑顔を返す。昨日の夢は現実であったのだろうか、いつもと同じようにあろうとすればするほどよそよそしく見えるもの。アンナの目にも、ダルクの目にも。
「今日は中々お出でにならないから、いらっしゃらないのかと思ったわ。」
「…そうだね、少し出遅れた。」
ダルクはそう言ってベッドサイドの椅子に腰掛ける。その距離を測って昨日と比べたくなる、何か一つでも様子の違うことを見つけて確信を持ちたい。
「…ノーラ、もう下がっていいわ。ありがとう。」
「は、はい。かしこまりました、お嬢様。」
使用人のノーラはアンナの言葉に、取り替えたばかりのテーブルクロスを携えて静かに部屋を後にした。室内には未だ葬送の鐘の音の余韻が残る。