「おはようございます、先生…」

アンナは寝台のカーテン越しの朝日で目を覚まし、傍らで一心に読書をしているダルクに話しかけた。彼が手に持っていたのは、洋服と同じ真っ黒な装丁の本。しかしその黒い色には、どこか塗り潰したような跡が見られた。

「…おはよう、アンナ。」

ダルクは相変わらず弱々しい笑顔を浮かべて、パタンと本を閉じた。

「昨日は私を部屋まで運んでくださったの?」

「…そうだよ。体の調子はどうだい?」

「変わりないわ。」

今日のこの空と同じ、昨日となんら変わらない。毎日何かしらの変化を望みながら、変わらないことも同時に願う。この体はもう悪い方向にしか変わらない。希望は抱けば抱くほど、心をきつく締め付けるだけ。だから偽りの笑みを浮かべて見せる。諦めが笑顔をつくっていた。

「昨日ノーラが言っていた通りね。綺麗に晴れているわ。」

アンナは少し癖のついている方向を見遣って微笑んだ。

「…また外へ行きたいなんて言ったら、今度はお母様がお止めになるよ。」

「ふふ…そうね。今日は大人しくしているわ。」

アンナはそう悪戯に微笑むと、僅かに体をよじって上半身だけ起き上がった。大きな羽毛の枕を背にあてて、ふーっ…と一息をつく。軽く閉じられていた瞳は、ゆっくりと勿体振るように開いて、そのままダルクの方へと向けられた。

 

 

「何の本を読んでらしたの?」

未だダルクの白い手に据えられたままの黒い本に一瞬目をやり、アンナは尋ねた。それは分厚く、男性の大きな手から少しだけはみ出すくらいの大きさで、閉じられた本の側面の紙の焼け具合から大分古いものであると伺える。

「…昔の本だよ。」

「そうやってご自分のことをおっしゃりたがらないのね、先生。」

アンナは皮肉混じりの言葉に、満面の笑みを添えた。ダルクはそれを受けて、自嘲的で微弱に微笑む。

「…そうだね。狡かったかな、少し。」

「いいえ…ごめんなさい、生意気な言い方をしてしまって。ただ先生の本当のところが分からないものだから…」

昨日すぐにダルクが医者でないとは見抜いても、その真意は未だ掴めないままであった。どこか世俗とは一線を慝す雰囲気に、放浪を思わせる職業を羅列してもダルクは首を横にふり続けた。

「もう…夢に見るしか方法はないのかしら?」

「…どうだろうね。」

「ほら、またおっしゃらなかったわ。」

アンナが無邪気に笑ってそう言うと、ダルクは初めて虚を突かれたような表情を浮かべて、それから素直に微笑んだ。いつもそんな風に笑えばいいのに…美しい笑顔を隠す重い影。それは彼の正体と同じく、未だ掴め得ぬもの。長く引きずって来たが故に、もはや離れることはないのだろう。

「…食事を摂るかい?先程使用人が置いていった。」

ダルクは手にしていた本をベッドサイドの小さな机に置いて、その傍らの銀の食器の蓋を取った。中からはふんわりと湯気が立ち昇り、クリーミーな匂いを辺りに漂わせた。

「お母様特製のカボチャのスープね。」

アンナはそれを嗅ぎ取って、中身も見ずに言い当てた。去年の暮れに収穫したカボチャの乾燥させたものを、ドロドロに溶けるまで煮込んで牛乳を加えたアシュリーの得意料理。アンナも他の兄姉もそれが大好物であった。母の母の、そのまた母の代からずっと繋がる味。姉たちが嫁いでいく時に母から教えられていたものを、体得していないのはもはやアンナだけとなっていた。

「…食べられそうかい?」

「えぇ、少し頂戴するわ。」

アンナの言葉に、ダルクは小さめのボウルにひとさじだけ掬ったスープを流し入れた。トロリとした黄色いスープも、今は昔ほど食指を動かしてはくれない。あれほど大きなボウルいっぱいに飲み干したいと思っていたことが、うたかたの夢のように思われた。

「…はい。」

「ありがとう、先生。…先生もお召し上がりになってはいかが?」

アンナはダルクの手が未だ凍るように冷たいことに気がついて、温かなスープを勧めた。

「…いや、私は…」

「お母様のカボチャのスープはとても美味しいの。それに温かいスープは体も心も暖めてくれるでしょう?」

アンナはふーっと手にしたボウルの湯気を吹いて、それからダルクに微笑みかけた。スープの乗ったサイドテーブルには、もう一組食器が置かれている。おそらくアシュリーが気を利かせてダルクの分も添えておいたのだろう。

「…そうだね、では頂こうか。」

ダルクは半ばアンナに根負けするように、控え目に自分の分のスープをボウルに注ぎ入れた。立ち昇る二つの湯気が、窓から入ってくる風に揺れる。アンナはひとさじ口に運んでは手を休め、非常にゆっくりとスープを飲んでいた。暖かい液体が喉元を通って胃に落ちていくのが分かる、随分久しい感覚。ダルクもそれを感じているのか、アンナに負けないくらいに時間をかけてスープを口へと運ぶ。

 

 

 

「…どうしてかしらね、先生。」

カタンと微かな音を立ててスプーンを置き、アンナは窓の外を見ながら呟いた。

「死を覚悟した途端に、思っているより長く生きられそうな気がしてくるの。…長すぎるくらいよ。」

そう言って振り向いて、アンナらしくない弱々しい笑みをダルクに向ける。未だあがない切れない罪があるのか、これ以上永らえてもただ苦しく哀しいだけなのに、一体神様は何を躊躇なさるのかしら。私はあと何度お母様に心でサヨナラを言わなければならないかしら。流した涙は既に枯れ果て、渇いた瞳はただ移り行く景色を映すだけ。せめてもう一度この瞳に涙が滲むなら、幸せに生涯を終わらせることができるのに。

「…神様は意地悪だからね。」

ダルクは意味深に呟く。

「…でもきっと君の事は許してくださる。君なら必ずその御許に行けるだろうよ。」

そうしていつか天使となって、遺された家族に愛をもたらすのだろう。

「私の事は許してくださるのに、どなたの事はいけないの?」

アンナの率直且つ鋭い問いに、ダルクは眉根を僅かに動かし、恐る恐るという雰囲気で目線を上げた。

「黒い服をお召しでも、本当のお医者様でなくても、神様があなたをお許しにならない理由にはならないでしょう?それとも…慈しみの笑みを忘れた神父様は別なのかしら?」

アンナは少し意地悪に、しかし柔和に微笑みかけた。窓から聞こえてくる木々のざわめきだけが、その間を埋めるように響く。

 

「…何故…そう思った?」

「先程。」

アンナは手元のスープがまだ少し残っているボウルをサイドテーブルに戻し、更に手を伸ばしてダルクが手放していた黒い装丁の本をとった。そしてその表紙の塗り潰された部分を軽く撫で、パラパラとめくり始めた。ダルクは何も言わずに、ただアンナの手元を見ていた。

「やっぱり聖書でしたのね。」

アンナは返事をしないダルクに言葉を続ける。

「こんなに大事に聖書を持っている方を、神様がお許しにならないとは思えないけれど。たとえ金文字を黒く塗り潰してしまっていてもよ。そうお思いになりませんこと?」

「…そう…なのかもしれないね、普通の人たちなら。」

「それが何故、ほかならぬ神父様ではいけませんの?」

アンナは矢継ぎ早に言葉を重ねた。やっと開き始めたダルクの口を、再び紡がせたくなかった。ダルクの苦い表情がアンナの心を締め付けても、アンナはその目線を彼から離さなかった。白に近い金色の長く伸びた前髪の下で、赤味を帯びた目が僅かに揺れる。ダルクはその目をアンナに合わせたとて、その深意を垣間見せることすらないままであった。

「……神父だったのは昔の話さ。」

やっとのことでダルクが口火を切る。何かを恥じるような、怯えるような…小さな声。

「聖職をお辞めになったからいけないと?やんごとない事情がおありでも、神様は全てお見通しになっていらっしゃるわ。だから…」

「お見通しになっているからだよ。」

ダルクは吐き捨てるように語尾を少し強めて言い切ると、そのまま俯いて前髪の下をアンナに明かそうとしなかった。

 

「……ごめんなさい、先生。」

アンナは自らの出過ぎた言葉を心底悔いて呟いた。この人は普通の人が…感覚の鋭くなった私でさえ、およそ考えつかないような闇を背負っている、アンナはそう思った。黒い色しか似合わないと言ったのもその闇があってか。彼がそれを口にすることなく、ずっと心にしまい込んでいるのは、その闇を誰よりも悔いて憎んでいるからこそ。それでも尚神がお許しにはならないと、ダルクは半ば意固辞になっている。万一にも見込違いかもしれないと思う余地もないほどに。

アンナは静かに聖書を閉じて、何の言葉を添えずにそれをダルクに差し出した。紙がすっかり変色するほどに古いこの聖書は、彼が誰かから受け継いだものなのか。十数年やそこらでは決してなり得ないほどに、聖書は哀愁を帯びて茶色く染まっている。そんな聖書とともに闇を背負って生きるダルクと、もうじき天に召されるアンナ。死の間際の出会いは何か不思議なものを感じさせる。何にも意味があるのなら、それがたとえダルクの手を暖めるような小さなことでも、アンナは全うしたいと強く思った。この世に生きた、最後の役割として。

「……すまない。」

ダルクは蚊の鳴くような小さな声で呟くと、アンナの差し出した自らの聖書を受け取った。ダルクにとってそれは贖罪の証であるのと同時に、自らが背負う闇の象徴でもあった。決して晴れることのない、深い闇。今まで誰をもそれに触れさせはしなかったし、無論アンナにも触れさせるつもりなどない。神に愛されて逝く少女に、この闇の一端でも携えさせてはならないのだ。

 

 

「少し…曇ってきたわ。」

昨日よりも格段に雲の多い空に、僅かに黒雲が混ざるのを見てアンナは誰にともなく呟いた。爽やかな風に金木犀が香る時期は過ぎ、窓からはヒンヤリとした初冬の空気が入り込んでくる。プラムが落ち果てて夏が過ぎたように、金木犀の花が落ちて冬がくる。そして雪が溶け春になったなら、また果樹園のプラムが花を咲かせるのでしょう。生死を繰り返して季節は巡る。人の一生も、どうぞそのようにありますように。

「…窓を閉めよう。」

ダルクは音を立てずに静かに立ち上がると、カーテンの揺れる窓をパタンと閉めた。アンナはそんなダルクの後ろ姿を見つめていた。黒い服、白味がかった金髪、蝋人形のように整った顔立ちに、生き人形のように冷たい体。どこか世俗を乞いながら、同時に交わりあうことに線を引く。

 

そうやって生きるのは、お辛いでしょうね…

 

それはさながら嘘をつき続けるアシュリーのごとく。安易に踏み込んで傷つけるようなことはしたくない。けれど…

 

「この雨もじきに止むわ。」

 

ポツポツと降り出して窓を打つ雨に、アンナは小さく呟いた。

 

 

    

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