「…脈を計ろうか。」

ややあってダルクは右手でアンナの手首をとり、左手で懐から古い真鍮の懐中時計を取り出した。かなり年季の入った時計からは、カチコチと微かな秒針の音が聞こえていた。

「…熱があるね。」

ひんやりとした冷たい手でアンナの高い体温を感じ取り、ダルクは小さく呟いた。

「えぇ、このところずっと。」

「具合の悪い時は、どんな様子だい?」

「熱が下がらなくて、とても怠いわ。それからすぐに目眩がして倒れてしまうの。」

「それは良くないね。」

目線を時計に落としながら、ダルクはアンナに問診をした。そしてそれを受けながら、アンナはもう一度ふふふっと笑った。

「ね、先生。」

アンナはダルクを呼んで、その落としていた目線をこちらに向けさせた。

「なんだい?」

「先生は本当はお医者様ではないんでしょう?」

ダルクは眉根を僅かにぴくりと動かせる。

「何故…そう思う?」

「お母様は上手に嘘をおつきになることができないの。私にすぐに見破られてしまうから、ほら…部屋を後になさったでしょ?」

そう言いながら、アンナは自分のそんな直感が研ぎ澄まされた時期のことを思い出していた。この病気を患った当初、“風邪のようなものだ、すぐに治るから心配ない”と言った母が目にいっぱいの涙を浮かべていたのを見て、アンナは自分の体の悪さを予見した。そして今、それが間違いなかったことを示す状態。それならば今予感していることにも、間違いはないのだろうと考えていた。ダルクが本当に医者ならば、“治る”というべきを“楽になる”とはいわないだろう。

「……鋭いね。昔からかい?」

「いいえ、体がこんな風になってからよ。思うようにどこにも行けなくなって、来るものだけを享受して、同じ景色だけを見ているから、少しでも変わったことに気付きやすくなったの。きっと神様が最後に色々と私に教えてくださっているんだわ。」

何も知らないままで名残惜しむことがないようにと。そこまで神に愛されていれば、死も怖いものではなくなるでしょう。

 

 

 

「それで…先生は一体どなたなの?」

相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、アンナは問い返した。正体を偽っていたダルクをそれ以上疑うでもなく、責めるでもない。

「それは…言えない。君のお母様との約束でもあるから。」

「あぁ…それなら良いの。」

安堵のため息をついて、アンナは静かに目をつぶった。思いもよらないアンナの反応に、ダルクはただ不可解の表情を示すだけであった。

「…何が良いんだい?」

「だってお母様が最初から全部ご存知なら、お母様に嘘をつく必要はないでしょう?嘘をつくのってとても大変だわ、たとえそれが優しいものでも。お母様もきっと…お辛いでしょうね。」

そう言って今日目覚めてから初めて、アンナは笑顔を絶やして頭を垂れた。私にはもう、お母様がお喜びになることは何一つして差し上げられない。悲しませる方法でしか、その辛さを解消することができない。病状や死の足音よりも、ただそれを思う時の心の痛みの方がアンナにとって辛かった。

「…優しいね。」

だからこそ神は、その御許に召せとおっしゃったか。アンナの清く美しい容姿と心は、確かに天使と呼ぶに相応しい。

 

 

「ね、先生。」

アンナはその身に落としていた影を一瞬で払拭し、上げた顔に笑みを浮かべて切り出した。

「お外に参りませんか?こんなにいいお天気なのだもの。閉じこもっていては損だわ。」

「…君さえ良ければ。」

「では参りましょう。」

アンナはいそいそとベッドから下りようとしたが、実際には少しも体を動かすことができず、それを見兼ねたダルクに軽々と抱き上げられて部屋を出た。それを目にした使用人が心配そうに止めようとしたが、アンナが弁解をしながら城の中を歩いていった。ダルクはアンナの導くままに、広い螺旋階段を下りて中庭を抜け、裏の厩の横を通ってプラムの果樹園にたどり着いた。収穫も終わり茂る葉も減ったその眺めは、ずいぶん淋しいものになった。落ちてそのままになっていた実も、長いこと熟れすぎた甘い匂いを充満させていたが、今はすっかり乾燥して原型を留めなくなっていた。それでも小春日和の日光が柔らかく二人に注ぐ。心の芯まで暖かくさせるほど、優しく平等な太陽。それでもアンナの体に触れ合うダルクの腕が暖まることはなかったが。

「すっかりプラムの時期も終わってしまったわ。結局去年ほど収穫を手伝えなかった…。先生はプラムがお好き?」

アンナはダルクの腕から降りて、一番近いプラムの木の枝を見上げて言った。

「…あぁ、果物は好物だ。」

「良かった。今年もプラムのジャムをこしらえているから、どうぞ召し上がって。きっとお気に召すわ。」

「…ありがとう、アンナ。」

常に一呼吸おいてから呟くように言葉を発するダルク。口許に笑みを浮かべてはいてもそれは大変に弱々しく、何かに負い目を感じているかのように控えめであった。暖かな太陽に映えると思ったダルクの金髪や白い肌は、今こうして実際に見てみると、それよりも夜の月光の方がしっくりくると感じられた。神秘というなら聞こえはいいが、物憂げなその立ち居振る舞いは、彼の真のところが医者と対極の位置にあるのだということを確信させるものに外ならなかった。

 

 

「先生がお母様とのお約束で明かせないのなら、私が当ててみせましょうか?」

アンナは白い寝巻を風に揺らしてダルクに振り返った。

「…私の正体を?」

「えぇ、お嫌?」

「…いいや。」

そうして浮かべたダルクの自嘲的な笑みは、それが難題なのだとアンナに思い知らせた。けれどアンナはそれに怯まなかった。せめてその答えの分からぬ内は、神の許に召されることはないでしょう。分からないままでは心残りになるのだから。

「画家さん…かしら?」

「…いや。」

「では…音楽家。」

「…違うよ。」

「吟遊詩人。」

「…残念。」

「それでは……あ…」

アンナが言葉の途中でよろめくと、ダルクはすぐさまそれに気がついて、音もなく素早くアンナに近づくと彼女の体を支えた。

「…無理はいけない。」

囁くように口にする。医者でなくとも尤もな意見。

「おっしゃる通りね…」

アンナはダルクにすがるようにしながら浅く荒い呼吸を繰り返して、このひどい吐き気を抑えようとしていた。しかし一度起こした目眩の体調不良は、すぐに改善されるものではない。日の下で僅かに赤らいでいたその顔も、一瞬にして青ざめてしまっていた。

「…ひどい貧血だ。」

「やはり…そうお思い?」

ただ久しぶりの日光に立ち眩んだだけだと思いたかった。けれど雨の日も曇りの日も貧血は起こる。疑う余地のない悪性貧血、その上治る見込みもない。

「…安静にしていた方がいい。部屋に戻ろう。」

ダルクはそう言って、来た時と同じようにアンナを抱え上げようとした。

「いいえ、先生。どうせ安静にするならお日様の下で。暖かいわ…きっと先生の手も…暖めてくださる……」

アンナは消え入る声で呟くと、そのままダルクにすがったまま意識を失ってしまった。今年の初めまで所狭しと戯れていた果樹園が、今は夢うつつの中で大変に広く感じられる。十分な食事が喉を通らず、床に臥せっていることの多くなったアンナにとって、今の数歩は全力疾走の如く体に堪えるものだった。

 

時間とは不平等なものだ。

 

「…可哀相に。」

ダルクはアンナの頬を優しく撫でて、そう呟いた。

 

 

   

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