さる王国の辺境には、山間にそびえる古城があった。それは子爵、フランツ・レーバン・ド・ニコライエス侯の住む城で、まことに古いながらも大変に由緒正しく、見る者のいずれの目にも、こと立派に映った。ニコライエス城は山間を切り開いた広大なその庭に、たくさんのプラムのなる果樹園を抱えていた。春から初夏にかけては甘酸っぱい魅惑的な香りが城とその周辺の村を満たし、故にこのニコライエス城は別名をプラム城といった。領主のフランツは質素且つ心優しい男で、果樹園のプラムは毎年村人に自由に振る舞われ、村には争いもなく実に平穏に季節が巡っていたのである。
フランツには7人の子供がいた。唯一の男子である嫡男のトロイは、必ずやニコライエス城の跡目を継ぐと約束をして王家に騎士として従事したまま未だ戻らず、以下それぞれ年頃を迎えた娘たち、リンダ、アマンダ、レイチェル、モリー、シェスカは他の貴族の元に嫁いでいき、末娘のアンナだけがプラム城で毎日を過ごす日々が続いていた。アンナは年の頃16だったが、小柄で痩せていたために12、3の子供に間違われることも少なくなかった。だがその美しさはおよそ子供とは思えぬほどで、薄茶色の澄んだ瞳、栗毛色の髪は緩く巻き、色白の頬を薄紅色に染めた顔立ちに、未来の貴婦人を想像しないわけにはいかなかった。アンナの両親はこの幾分年の離れた末の娘が可愛いことこの上なく、姉たちがアンナが一生どこにも嫁げないのではと心底危ぶむほどであった。
春には花の下で、初夏にはプラムを収穫しながら小さな池のほとりで戯れる。子供たちの声は年を経るごとに、ひとつまたひとつと小さくなっていったが、いつの日も明るさを失わないアンナがいたために、その声がなくなることは去年までは決してなかった。しかし今年の初夏にプラムを収穫したその後から、明るい声はそよ風ほどにも聞こえなくなった。アンナは両親や他の誰よりも、神に一番深く愛されたか、治る見込のない重い病に冒されてしまったのである。
「おはようございます。お具合はいかがですか?アンナお嬢様。」
厚手の豪華なカーテンを開けながらかけられた使用人の言葉に、アンナは薄く閉じていた瞳を開いた。天井にまで届くほど大きな窓からは、秋の柔らかな陽射しが注ぐ。このところの長い秋雨が嘘だったかのような、高い青空がベッドのアンナにも見えた。
「今日は大分いいわ。きっとこんなに素敵なお天気のおかげね。」
アンナがそう言ってますます色白く見える顔で微笑むと、使用人は「それはようございました」と同じく笑みを返してカーテンをひとまとめにした。庭の木は茶色く変色していき、日毎一枚また一枚と落ちていく。この広い庭の木がすべて落ちたなら、季節は冬へと変わるのでしょう。その頃までに私の命も散ってしまうのかしら?自分の体のことなら、自分が一番良く知っている。せめてお母様がお嘆きにならないように、残された日々を過ごしたい。…だめね、こんなことを考えるなんて。私の死期も大分近づいた証だわ。そういえば…
「お母様はどちらにいらっしゃるの?」
朝にはいつも使用人とともに部屋に来ていた母・アシュリーが、いつまでも姿を見せないことにアンナは尋ねた。
「奥様はしばしお出かけになっておいでです。すぐにお戻りになるとのことでございますよ。」
「そうなの…」
アンナは返事混じりに小さな深呼吸をした。開け放たれた窓から入る爽やかな風で肺を満たし、体の中の空気を入れ替えるように。病という毒に侵された体には、涼しい風が心地よい。冬になって突き刺すような厳しい風に変わる前に、蓄えられるものなら城いっぱいに貯めておきたい。
コンコン…
部屋に上品なノックの音が響いて、アンナは「はい」と返事をした。耳をそばたてないと聞こえないほど小さな声でも、母の耳にはちゃんと届くものなのか、見計らったように扉が開いてアシュリーが顔を出す。
「おはよう、アンナ。」
細身の女性がその影に悲哀を滲ませながら声をかけた。
「おはようございます、お母様。」
アンナはその影に気がつきながらも、何も知らない振りをして無邪気に微笑み返した。片方は悲哀を滲ませ、もう片方は生気の薄らいだ、とてもよく似た柔らかな笑顔。アンナの栗毛色の髪は父・フランツからの遺伝であったが、その顔立ちは紛れも無くアシュリーからのものだったので、大きくなったならきっとこのような女性になるのだろうと誰もが予感していた。だからこそ、その昔アシュリーが沢山の貴公子から求婚を受けたように、アンナにも早くから声がかかっていたのだった。愛しい娘の将来ゆえ中々決断できずにいたものを、両親は今になって希望のないNOの返事をださざるを得ないことになっていた。せめて偽りの愛でも一度でいいから、アンナに幸せを感じてもらいたいと思いながら。
「一体どちらに行ってらしたの?お母様。」
アンナは起き上がって、窓からの逆光を浴びつつ尋ねた。
「…お医者様を……お連れしたのよ。さ、どうぞ。」
アシュリーは数歩部屋に足を踏み入れて、扉の外に控えていた男をアンナの部屋の中に招き入れた。男はアンナに引けをとらないほどの色白な顔で、それによく映える赤味がかった瞳をしており、若干長めの髪の毛は白にも近い金髪であった。歳は30歳になるかならないかといったところで、長身痩躯の身体には肩口から足の先まで漆黒の服を纏っていた。右手には小振りでやはり黒い鞄と、屋敷に踏み入れるまで頭に乗せていたであろう帽子を携えている。
「お医者の…バン・ダルク先生よ。ちょうど麓の町にいらしていたの。アンナ、きっと体が楽になるわ。」
「まぁ…ありがとう、お母様。」
アンナは朝日よりも眩しい笑顔を母に向けた。
「ジャン・ハース・バン・ダルクです。よろしく、アンナ。」
ダルクはベッドサイドに歩み寄ってアンナに握手を求めた。
「初めまして、バン・ダルク先生。アンナ・フレイア・ド・ニコライエスと申します。」
アンナはそう名乗って、細い手でダルクの手を握った。そして僅かにドキリとして、その表情を瞬時に隠した。なんて冷たい手…まるで雪の中で手袋をはめていなかったかのよう。体温を微塵も感じられないその手は、蝋人形の手の方がまだ幾分暖かいとも思わせた。
「では先生、よろしくお願いします。」
アシュリーはそれだけ言うと、使用人を引き連れてアンナの部屋を後にした。パタンと閉められた扉のこちら側で、アンナとダルクだけが残された。それでも変わらず吹き込む風が、二人の髪を揺らす。
「…さて、具合はどうだい?アンナ。」
「今日はとても良いわ。久しぶりにボウルいっぱいのスープを飲み干したい気分よ。」
「それは何より。」
ダルクはそう返事をしながら、ベッドサイドの立派で重たげな椅子を引き寄せて、アンナの傍らに腰掛けた。アンナはそんなダルクを見ながら、ふふふっと鈴の鳴るような可愛らしい小さな笑い声を立てた。
「…何か可笑しかった?」
「いいえ、ごめんなさい。ただお医者様が黒い服をお召しだなんて珍しいと思ったの。」
喪服を思わせる黒衣は病人の前では忌避される。それを十分に知っててか、完璧なまでに黒い服に包まれているバン・ダルク。
「…私にはもうこの色しか似合わないんだよ。」
ダルクは少しアンナから目を逸らして、自嘲的に呟いた。
「あら、何故そうお思いなの?そんなに綺麗な金髪で、きっと白い服もお似合いになるわ。」
アンナの言葉にダルクは否定も肯定もせず、ただその口元に弱々しい微笑を浮かべた。アンナは少し落ち窪んだ大きな瞳を、ダルクにずっと合わせたままだった。