「千香子さん、きちんとご挨拶なさいな」
洋館の扉を叩くと、「まぁ、よくいらっしゃったこと」とその家の奥方は優しく微笑み、そしてすぐに娘への小言へと繋げた。言われた千香子という年頃の娘は、きりりとしたつり目の、気丈そうな顔立ちで、どこか不服そうなそれを玄関の陰からそっと覗かせていた。
「今度からうちに居候することになる新しい書生さんですよ。お名前は・・・なんとおっしゃったかしら?」
「日高昴です。初めまして、奥様。それとお嬢様」
昴は実に自然とこの家の新しい書生として挨拶をすると、やっと玄関前まででてきた千香子に微笑みかけた。
「・・・初めまして」
千香子は声までが不満そうである。母親はそれを見咎めて、「これ千香子」と小声で窘める。
「すみません、日高さん。この子は前にうちにいた書生さんととても懇意にしておりましたので、その彼が突然うちを離れることになったのを、ずっと拗ねているんですわ」
「お母様、私そんなんじゃ・・・」
「では、もっときちんとご挨拶できますね、千香子さん。藤塚の娘がそんなことでは困りますよ」
さらに窘められて、千香子はぎゅっと眉間にしわを寄せたが、すぐに深々と昴にお辞儀をすると「大変申し訳ありませんでした、改めてご挨拶申し上げます」と丁寧に言い直した。
「さあさ、このような玄関先での立ち話もなんですから、まずはお部屋へどうぞ。今ちょうど主人がほかの使用人を連れ立って外出してしまって、すぐにお仕事をしていただける状態ではございませんの。千香子さん、日高さんをお部屋へご案内して差し上げて」
千香子はその言葉に、一瞬「私が?!」というように目を丸く見開いたが、母親が見咎める前にすぐに元に戻し、昴に家へあがるよう促した。昴はその千香子の一連の表情に気がつきながらも、にこやかに「ありがとうございます」と礼を言いながら、下駄を脱いで玄関にあがった。
洋館風の玄関先から、日本家屋に繋がっている長い廊下を、袴姿の千香子に先導されて昴は歩いた。途中、中庭や古いたくさんの扉や柱時計などの調度品を見やる。アーチ状の格子や、豪華絢爛な金の壁紙、今では手に入りそうもないカーペットや、伝統的な床の間、それに日本庭園とシュロの木。どうやら明治の終わりから大正に入る頃のようだ。そしてこれが、依頼主が望んだ時代。
「日高さんは・・・」
しばらく無言だった昴に気を遣ってか、控えめに千香子が口火を切った。
「日高さんはどのようなお勉強をなさっているの?」
「僕ですか?」
そういえば考えてなかったな、とは思ったが、あえて嘘はつかずにいつもの自分を話に合わせることにした。
「民俗学ですよ」
「ミンゾクガク?」
「日本の文化や、お祭り、風習なんかを研究する学問です。これまで行われてきたことを振り返って、そこにどんな思いがあるのかを調べるんです」
「昔のことをお調べになるの?」
「そうです。退屈そうですか?」
冗談混じりに聞き返すと、千香子は図星をつかれて肩を軽くすくめた。
「古いものを調べてみると、意外と新しいことが分かったりするものなんですよ。特に古いものを手にすると、それがよく伝わってきます」
「不思議なんですね」
千香子は昴の言ったことをよく理解できなかったようで、消化不良のまま曖昧に返事をしたようだった。昴はそんなことお見通しで、その上で「ふふふ」と小さく笑う。
「前にいたという書生さんは、絵を描いていらしたとか」
今度は昴が口火を切った。すると千香子は嬉しいような寂しいような複雑な表情を見せる。
「え、ええ、そうよ。お母様からお聞きになったの?」
そんな話をしていたようには聞こえなかったけど、と千香子は怪訝そうに昴を見る。
「そうではないですけど、ちょっと事前に知る機会があったので。近江さんとおっしゃったそうですね」
「・・・そうよ」
「どんな方だったんですか?とても仲良くしてらしたとか」
「あなた、見かけによらずお喋りなのね」
千香子は実につっけんどんに言い切った。それでも嫌な顔一つせず、昴は微笑む。千香子はそれに呆れたのか諦めたのか、ふっと小さくため息をついてほつりと話を始めた。
「近江さんはね、絵のお勉強をしたいってご実家から出ていらしてたの。日本画もお描きになったけど、それよりも洋風の絵を好んでらしたから、うちの書生となるまではとても苦労なさっていたみたい。ほら、洋風の絵は様々な色を使うでしょう?それで、同じように洋風の絵がお好きなお父様がご支援なさったのよ。ご覧になって。この絵も近江さんがお描きになったの」
千香子は通りすがりに、壁に掛けてあった風景画を指した。この洋館をスケッチした、まるで写真のような絵であった。
「素晴らしい絵ですね。優しい感じがします」
「あら、古いものでなくてもお分かりになるの?」
先ほどの話を引き合いに出して、千香子は茶化すように聞いた。
「分かりますよ。人が思いを込めたものは分かります」
昴はじっと千香子をまっすぐに見て請け負ったので、千香子は「あなたって不思議な人」と付け加えた。少しだけ、はにかんだような笑みだった。
「ここよ」
廊下の突き当たりまできて、千香子は扉を開けた。そこは邸宅の日本家屋部分と洋館のちょうど境目にあたるところで、扉を開けると板張りの床に、ふわっと油絵の具の匂いがした。
「荷物が置いてありますね」
昴が室内を一目見ていったとおり、部屋の隅にいくつか荷物がまとめて置かれていた。革張りのトランクや、布に包まれた絵画・・・いかにも絵描きらしい荷物たち。
「そう、近江さんの荷物よ。近江さんはご実家のお兄様が急逝なさったので、急いで帰らなければならなかったから、すぐに持ち出せなかったものはこうして置いていったの」
「鍵はかかっていなかったようですが、普段この部屋にはあまり立ち入らないのですか?」
昴は室内に湿気が充満しているのを感じて尋ねた。油絵の具の匂いに、湿った木の匂いが混じっている。絵画を置いておくには、あまり適した環境ではない。
「ここは書生さんの部屋なの。使用人でさえ、用事がなければ入らないと思うわ」
「そうですか」
昴は返事をしながら部屋の中へ入っていった。そして真っ先にまとめられている荷物を探る。
「ちょっと、日高さん?!そう無闇に触らないで。確かに近江さんがやむを得ず置いていった荷物だけれど、近江さんからの手紙が届いたらお父様がお送りになるとお約束したのよ」
「知っていますよ」
駆け寄ってきた千香子に、ごく自然に一言返す。思いがけない昴の返答に、千香子は呆気にとられて立ち止まる。
「でも、大切なものだからこそ、そのままにしておくだけでなく、良い環境に置いてあげなければいけません。今日はちょうどいい季節ですしね」
「ちょうどいい季節?」
昴はにこりと笑って立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「初夏の頃に、梅雨の湿気や虫などから守るために整理するのを曝書(ばくしょ)といいますね。尤も、それは守るものが本であった場合の言い方ですが。絵画は調度品なので、風入(かぜいれ)の方が言葉が合うでしょう」
そう言いながら昴は、少し立て付けの悪い窓を開けた。途端に初夏の爽やかな風が室内に流れ込んでくる。油絵の具の匂いも、湿った木の匂いも吹き飛ばして、初夏独特の緑の匂いが鼻をくすぐる。
「さ、少し風通しを良くしてあげましょう」
再び荷物の方に戻って千香子を促す。まずは重そうなトランクから、と昴が持ち上げようとすると、千香子はそれをとっさに制した。
「待って。待って・・・日高さん」
それはまるで大事なものを触らせたくない小さな子供のようだった。元の持ち主がよく持ち上げていたであろうトランクの、取っ手に恭しく触れる。
「・・・好きだったんですか、近江さんのこと」
その様子に昴がそっと尋ねると、千香子は途端に顔を赤くして、
「じょ、女性にそのようなことを聞くものではないわ!」
と凄んだ。しかしその言葉も暖簾に腕押し。昴は相変わらず柔和に微笑んで、じっと千香子を見つめる。
「・・・羨ましいくらいだったわ、私には」
ややあって、ためらいがちに千香子は呟いた。
「羨ましかったの。そう・・・羨ましかったのよ。絵を描くという夢があって、それにまっすぐで。そんな近江さんの近くにいると、私も同じ夢を描いているようにも思えたわ」
けれど所詮、夢を追いかけている人と、その傍ら。無口で寡黙なあの人に、畳みかけるように話しかけても「聞いてらっしゃるの?」と尋ねてばかり。きっと、夢を見たい私が彼と仲良くしていたがっただけ。きっと、近江さんの目に私は映っていなかった。
「お嬢様」
ひどく悲しげに俯く千香子に、昴は優しく呼びかけた。
「お嬢様、実を言うと僕は、近江さんに頼まれてここまで来たんです」
「え?」
千香子は驚いて顔を上げる。
「頼まれたって・・・何を?」
「絵を見せてあげてほしいと。ちょうどこの時期、この家に置いてあったから、と」
「何のこと?」
ますます訝しげに千香子は眉間にしわを寄せた。それでも昴はにっこりと微笑むだけで、それ以上詳しく言葉を重ねない。その代わりに、立てかけてあった布にくるまれている絵画の中から、一つ確信を持って取り出した。
「近江さんは絵に夢中で、ご自分のことはよく見てくださらなかったのではないかと、そう思っていらっしゃるんでしょう?」
口にはしなかったはずのことを突かれて、千香子はギクリと肩をすくめた。
「でも、よくご覧になって。これはお嬢様の絵です」
昴はそう言いながら、結んであった紐を解き、中の絵画を露わにした。