お盆の、夏の真っ盛り、木々はまるで大型のスピーカーのように、蝉の声を大きく響きわたらせている。多くの木に囲まれている双姫神社に至っては、人の声さえ遮るほどであった。
「こんにちは、昴くん」
一声かけた友泰に何の返事もなかったのは、そんな蝉の声のせいかと思われたが、何度か同じ言葉のニュアンスを変えて呼びかけて、それでようやく彼が出かけているのだと確信した。主が不在の双姫神社は、熱い太陽光にもわもわとした上昇気流を感じさせたが、ちょろちょろと手水が立てる清廉な音が幾分涼しさを感じさせていた。その水を少し手にとって、さらに涼を求める。
「トモヤスじゃ、トモヤスじゃ」
誰もいないはずの境内の隅から、甲高く実に楽しげな子供の声がした。友泰は振り返って、にっこりと笑みを見せる。
「やあ、青葉闇くん」
ケタケタと笑い声を立てて、その名の通りの木陰にたたずむ小さな子。友泰の袖をいたずらにグイグイと引っ張って、目線をこちらに向けようとする。
「昴くんはいるかい?」
「オイラ、知らなーい」
「そう?出かけてるのかな?すぐ戻ってくるといいけど・・・」
「戻ってこん!ずーっとずーっとまだまだ戻らん!」
青葉闇は両手をいっぱいに広げて、その戻らぬ期間の長さを体で表現した。その様子に、友泰は「うーん」と唸って首を傾げる。
「それなら・・・出直した方がいいのかな?夕方には帰ってくるかな・・・?」
「あれ、友泰さんじゃないですか」
友泰が言い終わるか終わらないうちに、背後からまったく予期せず澄んだ声が響いてきた。驚いて振り返ると、紺色の浴衣を着た昴が、いつもと変わらず穏やかな様子で立っていた。
「あ、あれ?ずいぶん早かったんだね」
「そうですか?そうでもないと思いますけど」
「え?だって・・・」
途中まで口にして、友泰は気がついて一人「ああ・・・」と納得した。昴が帰ってくるかどうか聞いた相手は、天邪鬼であった。青葉闇はそんなことお構いなしに、また楽しそうに元の木の下へと走っていった。
「ところで昴くん、お祭りにでも行っていたの?」
「何故です?」
「いや、浴衣着てるからさ」
「いえ、これは単にこの方が楽だからです。友泰さんにもおすすめしますよ。そういう友泰さんこそ、海にでも行っていたんですか?しばらく会いませんでしたね。その間に随分日焼けしたみたいですけど」
昴に言われて、友泰は「ははは」と軽く笑って、皮が少し向けている腕を持ち上げた。確かに昴の言った通り、友泰はかなり色黒な肌になっていた。元々それほど色白な方ではなかったが、今はすっかり白いTシャツが眩しく見えるほどに焼けている。
「いや、ちょっと実家に帰って農作業手伝ったからさ。海だったら少しはカッコがついたんだろうけど。はい、これおみやげ」
友泰は手に提げていた袋を昴に手渡した。
「みんな何が好きか分からなかったから、すごく無難なチョイスだったかもしれないけど」
友泰の謙遜に、昴は袋の中をちらりとのぞいた。平たい長方形の箱の表書きには、「名物酒まんじゅう」と筆タッチの文字で書かれている。
「ああ、これなら大丈夫ですよ。みんな好物ですから」
「そっか、良かった」
「冷たいお茶を煎れますから、ご一緒にどうですか、と言いたいところですけど」
友泰を誘うのかと思わせて、昴は反語を繋げる。
「生憎僕はまた出かけなければならなくて・・・。お茶を煎れる時間くらいはありますから、どうぞゆっくりしていってください」
昴は社務所へと友泰を促して、木陰で一人楽しげな青葉闇にも「お前もおいで」と声をかけた。続いて佐保と竜田も昴の声に反応して、石の台座から駆け降りてくる。
「なんだか忙しそうだね」
「仕方ないんです。この時期はどうしても頼まれ事が多くなるもので」
「そっか・・・」
「どうかしました?」
昴は振り返って、意味深な友泰の言葉を聞き返した。忙しいとは口にしながら、それでも友泰が何か言い出すまで足を止めて、じっと見やる昴。揺るがせないその漆黒の瞳が、友泰にまっすぐ向けられる。
「あ、いや・・・大したことじゃないんだ。次会ったときで、全然」
「そうですか?いいですけど、手遅れにならない内にお願いしますね」
本当のところでは何かを既に察したのか、昴もまた意味深な言葉で忠告した。
昴に促されて社務所に入ると、畳の冷たい感触が実に気持ち良かった。室内に残る湿気も、日に当たっていないせいかひんやりと感じられる。クーラーがついているわけでもないのに、それ以上に心地よく涼しい双姫神社の社務所。昴は奥の台所から冷たい麦茶を持ってくると、二つはグラスに注いでテーブルに置き、もう二つは少し深い皿に注いで縁側に置いた。縁側の外では、佐保と竜田がしっぽを振って待っている。
「それじゃ、すみませんが」
そういうと、先ほど手渡された友泰からの土産を袋から出してテーブルに広げた。
「長くかかるかもしれませんから、適当な時間になったらこのままお帰りになって結構です。戸締まりだけ、お願いしますね。鍵は佐保か竜田に預けてくだされば問題ありません。くれぐれも青葉闇ではなく、二人のどちらかにしてくださいね」
「ふふーんだ、オイラだって鍵くらいちゃんと預かれるもんね」
まるで昴を茶化すように、青葉闇は部屋の入り口で体を半分だけ覗かせていた。茶なんか飲みたくないという振りをして、実のところは部屋の中に入る機会を窺っている。
「そういう訳なので、青葉闇には預けないでくださいね、友泰さん」
「うん、うん、大丈夫」
昴に念を押されて、友泰は思わず重ねて頷いた。昴は「よろしくお願いします」ともう一度友泰に頼むと、酒まんじゅうの箱から三つ取って、二つはその場でフィルムを剥がすと縁側で待っている佐保と竜田にやって、残りの一つを持ったまま拝殿へと向かっていった。昴が行ったのを確認すると、青葉闇は途端に部屋の中に走り込んで、待ってましたと言わんばかりに麦茶を飲み、酒まんじゅうを手に取った。友泰はやはり何か残念な表情で小さなため息をついたが、傍らの青葉闇が盛大にグラスを落としたので、それもすぐに消さざるを得なかったのであった。
「おまたせ、ひこばえ」
拝殿に戻ると、すぐに昴は声を掛けた。ふわりと降りてきた稚児に、昴は持っていた酒まんじゅうを手渡す。
「もう良いのか?」
うまくフィルムを剥がせなかったひこばえは、結局昴にやってもらいながら尋ねた。
「うん・・・友泰さんがまだいいというのなら、無理に話してもらう訳にもいかないし。確かに何か気になる感じではあったけど・・・」
「友泰のことではないわ」
話題を一蹴してひこばえはまんじゅうを一口かじる。
「お主のことじゃ、昴。良いのか?もうずっとこうして出掛けてばかりではないか。こちらは双姫と交代交代だから良いものの、昴、肝心のお主が参ってしまっては・・・」
「ありがとう、ひこばえ」
まんじゅうで膨れているのか、それとも不満を表しているからなのか、頬をまん丸にしているひこばえに、昴は柔和に微笑み返した。
「先日、佐保と竜田にも同じ事を言われてしまったよ。でも、ならべく送り盆までには用事を済ませてあげたいからね。そう不機嫌にならずに、もう少し付き合ってくれないかい?」
「仕方がないの」
ひこばえは残っていた酒まんじゅうをすべて口に入れて、もごもごさせながら承諾した。
「それで、今度は一体何なのじゃ?」
口の中を空にしてから、ひこばえは改めて尋ねた。昴は「うん」と返事をしながら、神棚にあげてある高杯の一つから、そっと小さな白いハンカチ包みを取り上げた。しゃがんで、包みを解いて、そっとひこばえに見せる。その中にあったのは、三角形に近い木の欠片で、表面には草花とおぼしき彫刻と、すすがついていた。
「何じゃ?」
「額縁の角だよ。その他の部分と納められていた絵は、随分前に消失したそうだ。残っているのがこれだけ。持ち主に頼んで念を込めておいてもらったけど、行けそうかい?」
「行くのは、の。だが絵と額縁を元に戻すことはできんぞ」
「いいよ。それは僕の方で何とかするから」
何の気なしに言葉を返すと、ひこばえはまた不満そうに頬を膨らませた。連日そうやって昴ばかりが背負い込んでばかり。ここ最近昴が洋服でいないのは、急激に痩せてしまったことが露呈するのを避けているのだということを、ひこばえは知っていた。そしてまた浴衣の下に一本、体型補整のタオルが増えたことも知っている。いくら口で「大丈夫だ」とは言っても、疲れは目に見えていた。
「これが終わったら・・・、これが終わったら少し休め。約束じゃ、昴」
ひこばえは小指を立てて迫ったが、昴は相変わらず柔らかく微笑んで首を横に振る。
「その約束できないな。きっと反古にしてしまうから。でも、別の約束ならするよ。無理はしない、それでいいかな?」
昴の心中にはきっと、先ほどの友泰のことがあるのだろう。放っておくはずがない。そして放っておかない昴を心から信頼しているのも確か。
「・・・分かった、それで良い」
ひこばえはまだ不満そうではあったが、昴と小指を絡めて何度か上下に動かした。
「それじゃ、頼んだよ。ひこばえ」
そしてまた、双姫神社の拝殿が霞んでいく。昴の姿はその霞の中にとけ込んでいって、次に目を開けたときには昴は見慣れぬ洋館の前に立っていた。
≫2へ